scene98  心の奥底の自分と向き合いたくなくて

(さあて、なにしてるかなトオルは?)
 笑ってテレビでも見てるか、突然の出発に備えて旅支度をしているか。全ての予想していた事柄は全て外れた。
 部屋は薄暗い――そう感じるだけで、電灯はしっかり点いているし、窓からは真昼の太陽の光が燦々と差し込んできている。薄暗く重苦しく見えるのは、トオルがそういう雰囲気を出しているからだ。ベッドに座ってドアに背を向けて、がっくりとうなだれている。それもただ単にうなだれている感ではない。半径数メートルくらいの円を作って、そこには誰も踏み込ませないテリトリーを張っているようにも見え、その中は悲壮感が充満していて息をすることさえ困難な世界があるようだった。トオルの周りだけ陽光が避けて通っているようにさえ見えた。
(な、何を見てるんだオレはっ。そんな風に見えるわけないだろっ)
 ジュラは眼をこすって視線を足元へ落とす。もう一度その光景を見るつもりはなかった。飲み物を買いに行って長い間帰ってこないのもおかしい、そう思って普通に入室することにした。
「トオル、お前の分も買ってきてやったぞ」
 そう言いながらジュラは、普通を装って部屋に入る。
「お、早かったな」
 トオルは笑顔でこちらを振り向く。重苦しい雰囲気や、円形の悲壮世界はもうそこにはなかった。陽光もまぶしいくらいにトオルを照らしている。今見たものは錯覚かと思わせるほどだったが、ジュラにはそうでないことはすぐに分かった。
(早かったな、か……。十分以上かかってそう言うか……)
 一階の自販機まで行って飲み物を買ってくるだけで十分もかかって、早いとは誰も思わない。トオルはそれだけの間、あの悲壮感だけが目の前に広がる世界で自分の時を止めていたのだ。適当に飲み物を渡すと、トオルはお礼を言って受け取る。
(そうかよ、悲しみは見せないってことは、オレはまだ完全に仲間と認められたわけじゃねぇんだな)
 一緒に行動して、同じ部屋に泊まることが出来る。それだけで充分に近づくことは出来ても、まだ完全に心を許してもらったわけではない。ジュラはそれを悟って、下唇を軽く噛んだ。今までこれほど簡単に近づけることは無かったが、これほど信頼を得るのが難しいことは無かった。実力至上主義の裏世界と、感情と信頼で動く表世界に、これほどの差があるものなのか。
(難しいパズルほど、解き涯があるってな)
 ジュラはトオルの繕った明るい態度から視線を背ける。そして踵を返して部屋を出る。
「メイリちゃんたちにも、飲みもん分けてくる」
 そう言って扉を閉めて、一息つく。隣の部屋のドアまで行って、ふと手を止める。さすがに女子のいる部屋をこっそり覗き見するわけにはいかない。自分がいないときの状態を確認できないことが残念な表情を出すが、ジュラは普通を装ってノックをする。中からはエミの返事が聞こえた。
「ジュラだけど。飲みもん買って来たけど要るかい?」
 質問と同時にドアが開いて、エミが応対する。やはり笑顔だ。
「あ、ありがとうございます。――メイリさん、ジュース要ります?」
 エミは部屋の置くにいるメイリに尋ねる。ジュラの立ち位置からは、構造上死角になったところにいるみたいで、メイリの姿は確認できなかった。メイリは、いる、と元気のいい返事をする。声音を聞く限りでは、とても落ち込んでいる様子は感じられなかった。エミはジュラから適当に飲み物を二本受け取り、もう一度お礼を言ってからドアを閉めようとする。それをジュラは思わず制してしまった。
「どうしたんですか? ジュラさん」
 特に用は無かったが、手が勝手に動いていた。だがここで何もないのは、ジュラにとってもエミにとっても雰囲気を重たくするのは分かっていた。それだけは避けるように必死で質問を捜し、やっとそれをジュラは声に出す。
「きょ、今日はどっか行ったりしないのかな?」
 エミは少し考える素振りを見せる。しかしどこかよそよそしさを感じた。
「朝にあんなことがあったばかりですし、今日はどこにも行かないと思います……」
 笑顔で応えてはいるが、語調は弱く、薄い影が表情を覆っている。
「そっか。そうだよな、今日一日くらいはゆっくりしててもいいよな」
 ジュラは無理矢理笑顔を繕う。雰囲気を盛り上げて仲間になろうとする計画があるため、こちらから盛り下げるわけにはいかない。だからといってあまりに他人行儀だと、距離が少し離れてしまう恐れがある。今まで身内だったかのようなニュアンスを込めて、案じる振りをする。これで恐らく間違いはないと、ジュラは僅かに自己肯定する。
 そしてジュラが去ろうとすると、今度はエミが引き止める。なにかまずいことでも言ったのかと、ジュラは恐る恐る返事をする。エミは部屋から出てドアを静かに閉める。その様子から、二人だけの密談だということはすぐに解った。一呼吸間を置いてエミは、質問なんですけど――と話し始める。固くなっても仕方がないと諦めたジュラは、肩の力を抜いて軽く、何かな、とだけ言う。
「――ジュラさんは、自分が助けたカーシック君が亡くなって、悲しくありませんか?」
「え……?」
 予想以上に心の中に踏み入った質問に、思わずたじろいでしまう。混乱に対応しながら、一生懸命回答を探す。
(忘れてた……! こいつらの前では、巨漢から助けたことになってんだった)
 実際はそう見せかけた共謀で、結果予定通り自らカーシックを殺したのだ。もともと予定していたことでもあり、悲しいわけがない。だがそれだと体が悪い。嘘を並べてでも悲しみを装わなければ、仲間に入ることは叶わないだろう。
「うん、悲しいよ。あの男、単なる逆恨みだよなぁ……」
 言ってエミの顔を確認する。エミの表情は変わっていない。
(よかった。大丈夫っぽそう――)
 思いかけてエミがもう一度口を開く。
「本当のことを教えてください」
 その言葉に、ジュラは核心を突かれたかのような表情を出してしまう。エミはそれを確認して、なおもじっと目の前の人物の眼を見つめている。真剣さしか探れないその瞳に、ジュラは折れた。
「……悪い。実は悲しみはない。まだ会ったばかりだからって言うか、その、オレはオレなりに近づけてるつもりではいるんだが、まだ死を悲しめるほど近づけてはいねぇみたいだ」
 ジュラの言葉には、誠実さが篭っている。しかしそれも単なる見せ掛けに過ぎない。言ったとおり、近づくために組み上げた言葉を、さも本心のことのように語るだけだ。だがエミの瞳は、ジュラを避けるような感情は全く表れなかった。仲間の死を悲しまない者もいるのを肯定するような、ジュラが一緒にいることを許すような眼をしていた。
「ありがとうございます、本当のことを言ってくれて」
 エミは冗談ではなく、真面目に喋っている。ジュラもそれを感じ取る。
「いいのか? オレはカーシックの死を悲しんじゃいない」
「仕方がないです。まだ日も浅いですし。――でも私は、ジュラさんは一緒にいてもいいと思います」
 あまりにあっさりだった。エミから許可を貰ったも同然だ。エミはこの後、あと二人がどうか知りませんが、と笑って付け加える。しかしジュラにとってはこの上のない進展。一人落とせば他の二人も何とかなるだろうと考える。ジュラはあえて一言も発しなかった。これ以上喋ると、なにか余計なことを言いそうで怖かった。
「あ、引き止めてすいません」
 エミはそう言って部屋へと戻っていく。いくつも年上の力の強い男を相手に、あれほどまで頑なな姿勢を崩さずに堂々と質問できる少女に、ジュラは思わず色々と話をしたくなったが、今度は引き止めはしなかった。
(にしても、誰もが誰も揃ってそうなのか――)
 ジュラは近くの壁に寄り掛かって天井を見上げる。
(エミは認めたとはいえ、まだオレには悲しんでる姿を見せようとはしねぇんだな)
 敵の懐に忍び込んだはずなのに、逆にこちらが試されているような気分に、ジュラは憤りではない変な感情を覚えていた。それは後一歩の所で解き方が分からない、知恵の輪をしている気分とよく似ていた。しかしそれでも、もう少しで入り込める手応えを掴んでいた。
(そうすれば、すぐだ。すぐにでも二人を殺すことが出来る)
 最優先すべきは任務。だがそれを忘れて仲間に入ろうとする自分がおかしくなった。暗殺目的で潜り込もうとしているのに、必要以上に仲良くなりたがる自分に、さっきと同じ呆れの感情が込み上げてくる。
(しっかし、なぜだろうな。結構心地いいのは……)
 今まで感じ得なかった気分に苦笑する。そして気分を入れ替える。
(さあ、この任務をさっさと終わらせちまおう! オレが変になる前に――)
 ジュラはどうしても、この新たに芽生えてきている感情に支配されるのが嫌だった。それに囲われると、別の人格が現れそうな気がした。ジュラという自分が、もう一人の自分を頑なに拒むのを、どっからか傍観している自分に気付いて、その思考を払拭したくて仕方がなかった。

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