scene97  底の無い呪われた感情

 ずかずかとBE社の廊下をジュラは早歩きする。顔には翳りが浮かび、気分が悪いと言う感じを表に出している。絢爛なじゅうたんがしっかりと敷かれた廊下であるのに、まるで地面を蹴り上げ足音が聞こえてくるようだった。明らかに腐臭のするような威圧感を放っており、歩く先々で派遣員が端によって道を開ける。
「畜生……っ! ったく、腹が立つ!」
 出来る限り小声で、精一杯腹の内を吐露する。
(苛つくんだよあの野郎! 腹立つっ。 てめぇが何様のつもりでいるんだよ、ああぁ?)
 ジュラが怒りの矛先を向けているのは、先程まで同室で話をしていたボートだ。
(偉そうに命令してんじゃねぇよ! オレがてめぇの事なんか敬うわけねぇだろボケっ!!)
 頭の中を支配するのは、ボートに対する罵倒だけ。今はそれしか考えることが出来ない。
(ただ仕方なく従ってるだけなんだよ! てめぇの力で服従させたようなツラしてんじゃねぇよ! サル山のボスか糞がっ!)
 脳内で罵倒するだけでは飽き足らずに、思わず廊下の壁や職員を蹴り飛ばしそうになるが、精一杯自省する。ここはまだBE社内。冗談でもそんなことをしてしまえば、すぐにボートの耳にそれが入る。そうなれば不穏分子として扱われかねない。ボートの力量は自他共に認めるものがある。むしろそのようなレベルではなく、三八界の人間誰一人が叶わないことも考えられる。今は一つ借りているとはいえ、真魔石を三種類持つ人物だ。抗うだけ無駄である。
(オレはいつかてめぇの呪縛から逃れるつもりだぜ! 今に見てろよぉ……ボート・キル・デートぉ!)
 ジュラはずっと足を止めずに歩き続けていた。この建物にいること自体が、彼にとっては反吐の出ることだった。ボートに反抗することによって、BE社にいることを忘れようとしていた狙いもあった。そして出口に差し掛かったとき、正面玄関の扉のガラス越しに、トオル達が待っていることに気付いた。ジュラは思わず走り出す。
「メイリちゃんたち、どうしたんだ!?」
 慌てて駆け寄るが、ジュラにとって予想外の反応が返って来た。
「大丈夫だった? 私たちのせいで、詰問とか受けたんじゃないの?」
 真っ先に声を発したメイリは、心配の表情を浮かべてジュラを見る。声にもその感情が篭っており、その不安の深さが感じて取れる。
「いや、何もされてないぜ。他愛ない質問だったよ」
 ジュラはわざと軽く答える。標的に心配される必要はないからだ。そう、と言葉を聞いて黙ったものの、しかしまだメイリの不安げな表情は納まらない。見渡せばメイリだけでなく、トオルとエミの表情もどことなく暗い。
(そうか。オレへの心配もあるが、こいつらにとっちゃ、仲間を失ったばっかだもんなー)
 三人はどのようなことを考えればいいのか分からなくなっていた。カーシックの死を悲しむ、悼む。そしてジュラの身を案ずる。祈らなければならない、話さなければならない、思わなければならないことが多すぎて、どれを優先的にすればいいか思考回路が混雑している。
(ま、今が仲間として潜り込むチャンスか。上手くやれば一日中隙を窺うことも出来る立場になりえるな。まさに、悲しみに付け込んでってか)
 ジュラはメイリの肩を軽く叩いて、元気を出させる意の言葉を吐く。それでも反応しないのは分かっている。それでも優しさを売り続けておけば、いつか必ず無防備になる。もう一度言葉を告げようと口を開きかける。
「よっし! もう大丈夫! 悪ぃなジュラ。しんみりしちゃってよ。俺はもう大丈夫だぜ。な? メイリもエミも大丈夫だろ!?」
 トオルは突然大声をあげて、BE社の玄関前の敷地を道路のほうへ向かって歩き出す。振り返ってその言葉をかけたときには、トオルの顔には笑顔が浮かんでいた。曇りのない、いつもトオルが見せる笑顔だ。それにはジュラだけでなくメイリやエミも驚く。そして二人とも笑顔を取り戻す。
「そうね、ジュラの前で弱った顔なんか見せられないわ」
「うん、トオル、ありがとう」
 突然場の雰囲気を明るくしたトオルに、誰にも聞こえないようにジュラは小さく舌を打つ。
(もう少しだったのによぉ……)

 すっかりカーシックが生きていた頃の雰囲気を取り戻して談笑しながら歩く三人を、どこか気の抜けたような表情でジュラはなんとなくついて歩いていた。そしてなんとなく、あることを尋ねた。
「なぁ、お前ら。――悲しくないのか?」
 ジュラの気の抜けた声での質問に、三人が振り向く。
「何言ってんのよ、悲しくないわけないじゃない」
 メイリが淡々とした表情で答える。そこには茶化す様子は全くなく、本心だと感じ取れた。
「私たちは、前にいた世界で学んだんです。亡くなった人を悼むのは簡単ですけど、問題はその人が遺したものを活かせるかどうかだって」
「だから俺らは、カーシックのためにも笑う。なんたってあいつは、人の心配ばかりするような奴だからな。俺らが沈んだツラしてたら、自分のせいで悲しんでるんだって気に病むだろうからな」
 トオルは最後ににかっと笑う。ジュラは呆れきった感情に気合を入れなおして、精一杯それに賛同するような表情を浮かべる。それもこれも、これから自分のしようとしていることを悟られないために。だが心の内だけは、完全に遅れをとっていた。
(はっ。何言ってんだこいつら。見かけは確かに死人を悲しんでる風じゃねぇよ。実はそれが本来なんじゃねぇのか? オレがいるから悲しんだ振りをしただけでよ。――気楽な奴らだな。人が死んでもあっけらかん。大方、ウザい奴が消えてよかったと思ってるんだろ。――オレが殺してやってよかったな、くくく)
 ジュラは三人が再び前を向いて歩いているのを確認してから、誰にも気付かれないように嘲笑した。

 やがてホテルに到着する。ジュラはこれからどうしてこれ以上近づこうかと考えていたが、トオルの招待に乗ってまんまとホテルへと潜入した。
「ジュラは俺の部屋と一緒な。カーシックがいたところを使ってもいいぜ」
 トオルは何の躊躇もなくジュラを部屋に招く。カーシックの荷物は部屋の隅に丁寧に寄せられている。彼が昨晩部屋を出て行ってからそのままだ。
「オレ、なんか飲みもん買ってくるな」
「おお」
 ジュラは一旦対策を練るために部屋を出る。喉が渇いたのも本音だ。先程まで反吐が出るような偽善の言葉を身体に浴びて、それに対して出したうわべだけの汚れた賛同の返答が、喉を砂漠のように乾かしていた。一階まで降りるとレストランの隣に自動販売機が一機だけある。このご時世、わざわざ補充が必要な旧式の販売機で、いくつかのボタンに売り切れの表示が灯っていた。それを確認して、四種類の飲料を買う。
(さて、あとはいつ殺るかだな。表面だけとはいえ、少し元気が戻っちまったしな)
 ふと手元を見て、ジュラは自分のした行動が理解できなかった。
(何でオレは他の奴らの分まで買ってるんだ?)
 今回の任務について、自分のしてきた様々な行動を思い起こす。後になって考えれば、これまでにないくらいに時間がかかっていることに気付く。
(どういうことだ? 懐に潜入することは何回かあったが、ここまで丁寧に行ったことがあったか?)
 今までは僅かな不信感があろうが強引にでも相手の懐に忍び込み、疑惑の目が向けられる前にことを済まして姿をくらましていた。しかし今回ばかりは完璧を求めすぎている。
「ワケ分かんねぇ……」
 そして決定的な、カーシックを殺したときの罪悪感。最近心情の異変は感じ取っていたが、あれほどまで今までと違う感覚を味わったのは初めてだった。
(オレはどっかおかしくなっちまったのかもな……)
 さっきまで感じていたトオルらに対しての呆れには、自分に対する呆れも混ざっていたのだとようやく気付く。気付いた途端、また自分に対する呆れが襲う。しかしそれを拒まない。それによって自分に起きた異変を感じ取れるなら安いものだと思った。もう泊ることになった部屋のあるフロアまで上がっていたが、そんなことは気にせずに、感情の流れに身を任せてみる。そしてその賭けが、ある答えを導き出した。
(この呆れは、オレの本当の感情、更にその奥から漏れ出しているのか? いや、呆れに混ざって、怒りも感じる……)
 自身ここまで自分を客観的に感じることは初めてだった。それはとても不思議な気分で、心を食む闇に見つけた一点の光に向けて、精一杯潜り込もうとしている感じだった。そこに辿り着けば、自分の異変を知ることが出来そうな気がした。そしてようやくそれに手を伸ばした途端、目の前に紫煙が立ち込め、その光の場所が分からなくなった。まるで、呪いがかけられていてそれによってその光が護られているような、そんな気がした。
 一旦その光の捜索を諦めて現実世界へと意識を戻す。気付けばトオルのいる部屋を数メートル通り過ぎていた。
(オレとしたことが……。なに妄想にふけってんだよ)
 自らを戒めて扉の前まで戻る。
(そうだな、とりあえず……。オレがいないことで油断してるかもしれねぇ。その時の行動を観察するのもいいだろう)
 そう思ってジュラはノブに手をかけて、音がしないようにゆっくりと少しだけドアを開ける。

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