scene92  思いは全て闇に打ち消されて

 手紙には、カーシックを呼び出す旨の文が書かれている。
 ”今日の夜八時に、ホテルから歩いたところにある小さな道に、一人で来い。他の奴らに決して漏らしてはいけない。”
(まさか……)
 カーシックの頭の中には、この手紙の差し出し主は一人しか思い浮かばない。ぶつかって服を汚してしまった、あの巨漢だ。あの時はジュラが相手をして撒いてくれたが、それにますます憤慨して仕返しに来たのかもしれない。手紙に書いてあることを無視して、トオルらに相談しようかと思ったが、それを踏みとどまる。
(手紙には誰にも言うなって書いてあるんだ。向こうはもう、ぼく達がここに泊まっていることを知っている。何か約束を破れば、すぐにホテルに乗り込んでくるかも
――)
 そう思案しているうちに、今まで聞こえていたシャワーの音が止まった。トオルがシャワーを浴び終えたのだ。カーシックは慌てて手紙をポケットの中に押し込む。まだトオルは出てこない。
(どうしよう。やっぱり言うべきかな……?)
 大きな選択肢を迫られたカーシックは、慣れないこの状況に戸惑っていた。
(決めたんだ。ぼくは……ただ護られるのは嫌だ。これもジュラさんに一度助けてもらったんだ。今度は、ぼくが自分で解決する!)
 カーシックは決心して時間を確認する。指定された時間までは、あと四十分弱ある。指定場所に行くには五分もかからないことを考えれば、まだ暫く時間があった。その時間を使って、巨漢と対峙したときのあらゆる状況を想定して、どうして看破しようか考えることにした。さすがに力勝負では敵わない。ならばどうするか。
 やがてトオルがシャワー室から出てきて、悟られないように何気なく助言を受けてみることにした。
「あの、トオルさん――――」

 一通り助言を引き出したカーシックは時計を見やる。丁度いい頃合いを示す時計を見て、いよいよ指定場所へ赴く準備を始める。準備と言っても大層なものではない。武器の類は一切所持していないため、治療用の薬や薬草を持つ程度だ。テレビに夢中なトオルはそれには気付かない。
(よし、これでオーケーだ)
 あとはトオルに一言告げて出るだけだ。
「ト、トオルさん、ぼぼく、ちょっと出かけてきますね」
「おーう」
「帰りが遅くなったら、気にせずに先に休んでいてください」
「おっけー。いってらっしゃーい」
 テレビの画面を見ながらトオルはカーシックに相槌を打つ。カーシックは小さく、行ってきます、と言うと、ゆっくりと部屋を出て行った。

 まだ人通りの多い道を抜けて指定された場所へ向かう。歩くたびに街の明かりは少なくなり、人もまばらになっていく。やがては街灯だけが足元を照らし、虫の鳴き声しか聞こえなくなっていた。そこそこ幅のある道にもかかわらず、まるで使われていないかのような静けさだった。片側には大きなビルの壁がそびえ、反対側には柵越しに小さな森がある。この道の先は行き止まりではなく、この世界の中心都市セントラルシティとは逆方向だが、歩いていけばやがては違う町に着くはずだ。しかし今は、水を打ったような静けさがこの場を独占している。
 そして突然、凪いだ水面に大きな波紋を起こすように、それは現れた。
「よく一人で来たな」
 目の前にはカーシックの予想通り、例の巨漢が現れた。
「俺様の名前はジョンソンだ。覚えておけ、ガキ」
 ジョンソンは、高圧的な態度とカーシックをも凌ぐ身長で彼を威圧する。カーシックはすっかり怖気づいていたが、それでも退こうとはしなかった。
「な、なんなんですか、いきなり。クリーニング代なら、払いますから、わざわざ呼び出さなくてもいいじゃないですか……!」
 それがカーシックの、精一杯の抵抗だった。迫力のない睨みを受け、震えながらいつ攻撃が来てもいいように構えるカーシックを見て、ジョンソンは高笑いを始める。
「はっ、そんなんでよくこれたな。ちっとは勇気があることは認めてやるよ」
「ひ、一つ、訊きたいことがあります……」
「ん?」
「なんで、ぼくたちの居場所が、分かったんですか?」
「――別れた後、ホテルに入るとこを見たから」
 最後の返答だけ、ジョンソンの声ではなかった。それはカーシックの後ろから聞こえた。聞き覚えのあるその声にゆっくりと後ろを振り向くと、見覚えのある顔が立っている。
「ジュラ、さん……」
「よぉカーシックくん、こんばんわ~」
 それは昼に会ったジュラとは違っていた。台詞回しや態度などは変わらない。だが、その眼から放たれる雰囲気は、初めて出会ったときのそれとは全く違っていた。柔らかかったものが突然身を翻し、隠していた刃の切先を突きつけられたかのようだった。
「ジュラ、言われたとおり呼び出してやったぜ。このくれえてめえでやれよ」
「オレは極力、自分の手を汚さないように動きたいんでね」
 ジョンソンとジュラは、初めて出会ったような仲ではなく、友達のように澱みなく喋っている。
「ジュラさん、もしかして……この人を買収したんですか……?」
 カーシックは恐る恐る尋ねる。それに対しジュラは、口許に薄く笑みを浮かべただけだった。質問の答えは、後ろから聞こえる。
「はっ! この俺様が買収されるとでも思ってんのかよ。最初から、グルだったんだよ。最初から、な」
 カーシックは記憶を掘り起こす。ジョンソンの言い分とそれとを混ぜ合わせて、一つの真実が見えた。つまり、カーシックは偶然ぶつかったのではなく、ジョンソン自身がタイミングを計ってカーシックとぶつかり、コップの中身をこぼす。そしてそれに対していちゃもんを付けた後に、ジュラが助けに入る。その後トオルの加勢を拒否したのも、二人が組んでいたから、殴り飛ばされるのが嘘だとばれなくするため。心なしかジョンソンが飛ばされるタイミングが遅いように見えたのは、錯覚ではなかったのだ。
「そ、そんな……じゃあジュラさん、あなたは一体、何が目的で……ぼくを?」
 ジュラの笑いは一層不気味さを増す。
「オレは命令を遂行するだけさ。それが――」
 夜の風が木の葉を揺らして、それの擦れる音が空に響く。このときばかりは森のお喋りなどと言うファンタジーな感じはなく、何かを予感させるようなざわめきに聞こえる。そのすぐ側で、三人は殺気篭った緊迫の空気をまとっている。
 ジュラが何かを言い終えると、カーシックは震える足をますます震わせて、ついにはぺたんと膝を地面に着いた。力の入らない体はそのままその場に座り込んだ。
「そ……んな……じゃあ……」
 絶望感を放つカーシックは、遠くを見るような眼で驚きを隠せないまま小さな言葉を発する。
「つ、伝えないと……!」
 突然思い立ったカーシックは、脱力する身体に鞭を打ち、無理矢理身体を起き上がらせ走り出そうとする。
「ジョンソン、押さえろ」
 ジョンソンは言われる前からカーシックを追い、すぐに取り押さえる。その衝撃でカーシックはしたたかに全身を打ちつけた。怪力の前に身動き一つ取れなくなり、既になす術がなくなっていた。
「この事実を話した以上、最早生かしておくわけには行かない――ってか、最初からそのつもりだったんだけどね」
 ジュラが眼で合図をすると、ジョンソンはカーシックから離れる。取り押さえられた衝撃でカーシックは動けない。
「じゃあな、バイバーイ」
 ジュラはカーシックに向けて手を向ける。その瞬間カーシックの周りの地面が猛ったように隆起し始めて、無数の巨岩が姿を現し始める。幾重にも折り重なるような岩の柱がカーシックを囲い、やがて内側に向かって岩から岩が伸び始める。豪快なその様相とは裏腹に、辺りは静かで落ち着いた空気が流れている。轟音と悲鳴が、闇によってかき消されていく。
 カーシックの姿が見えなくなってから、岩の猛りは静まった。あらゆる隙間が完全に埋め尽くされてしまったそれは、まるで一つの岩石のように見えた。

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