scene66  驚き桃の木 男の立場

 トオルはそのまま、その騒音の元である男の側へと向かった。そして座席の横に仁王立ちする。
「おい、ラジオの音下げろ」
 いそいそと手元のパソコンのキーを叩く男は、その手を止めて隣の少年を見上げる。そして足元から頭頂部まで一瞥すると、平べったい声で話す。
「何だね? 私は今忙しいんだ。手短に頼むよ」
「もう一度言うぜ。ラジオの音を下げろ」
 再びパソコンの画面に向かっていた男は、もう一度トオルのほうを見る。今度は真正面を向いた。
「何を言っている。これが私のワークスタイルだ。邪魔しないでくれ」
 男の顔は細長く、頬はこけている。オールバックで目付きは悪いが、年齢は三十そこそこだろう。しかし若干色黒で、筋は通っているが低い鼻の所為か、老けて見える。この一言を言うと、男はまたパソコンに目を向けた。
「もういい、俺が止める」
 トオルはラジオのスイッチを切った。その瞬間、男は突然怒り出した。
「何をする! 私の仕事を邪魔するなと言っただろう!」
 立ち上がってトオルの顔の間近まで詰め寄る。こめかみの血管は浮き上がって、顔が少し赤みがかっている。見るからに怒り心頭の様子だ。男は視界の端で捉えたのか、客車を見回す。すると、客全員がしかめっ面でこちらを伺っている。それは明らかに男に向けられたものだった。この雰囲気に降参したのか、男はぶつぶつと文句を言いながらも、ラジオを付けずに着席したパソコンに向かった。
 トオルは一息つくと、自分の座席に戻った。周囲の客からは安堵を含んだ声が漏れた。
「トオル凄いじゃない。よく言ってくれたわ」
「まあな、ああいう奴はガツンって言ってやりゃあいいんだよ」
 そう言いながら、トオルは拳を振る仕草を見せる。
「ま、あんたにしちゃ、よくやったほうね」
 メイリはつっけんどんに言い放す。それに対して、はいはい頑張りましたよ――と、トオルが返した。

 暫くすると列車はトンネルに差し掛かった。大きな山の中を突き進んでいくらしい。この山脈を抜けてこの向こう側へと出る列車は、これが唯一だった。だが山の向こう側に住んでいる人がごく僅かなため、この列車は単線で一日に数本しかないのである。
 トンネルに入っている間は、客車に設置されている小さな電灯二つ分の明かりしかない。ちょっと薄暗い中でも、乗客たちは楽しそうに会話をしている。
 そして暫くしてトンネルを抜けると、そこには綺麗な景色が広がっていた。小高い丘から見下ろす街は、絵にも描けないような美しさ。青々とした自然の中に、赤い屋根がポツリポツリと見えている。その赤が映えていて、美しいとしか言いようがない。やがて緩やかなカーブ描きながら坂道を下っていき、村のほうへと下りて行く。村に入ると田畑や牧場が広がり、列車はその中を走っていった。
「メイル駅、メイル駅です」
 車内アナウンスがかかると、トオルらはおもむろに立ち上がる。先程教えられた駅はここだ。言われたとおり半日が過ぎており、高かった陽は落ち始めていた。
「あー長かったなぁ」
 列車から降りると、一つ向こう側の降車口からも降りる人影が見えた。するとあちらも気付いたようだ。するとお互いにあからさまに嫌そうな顔をする。降りたもう一人とは、車内でラジオを大音量で聴いていた男だった。
「なんだ、君たちも同じ駅だったのですか。迷惑なことですね」
 男は溜息をつきながら言う。
「なにが迷惑だ。お前のほうこそ迷惑野郎じゃねぇか」
 この言葉に男は、口許に薄っすらと笑みを浮かべる。何を思っているかは分からない。
「まあいいです。せいぜい、私の邪魔をしないでくださいよ」
「は?」
 トオルは、一体何の邪魔をされたくないのか分からなかった。
 男は無人の駅を出口方面へ歩いていく。とは言っても、小さな駅舎を抜けて短い階段を下りれば外という、小さな無人駅である。出口は一つしかないので、トオルらは彼の後ろを歩くしかない。男は、パソコンが入っているであろうアタッシェケースを右手に持っていた。座席の上に散乱していた書類もあの中だろう。
 そこで、メイリがあるものに気付いた。
「わぁ……おっきい車」
 駅の外の狭い道路には、道幅の半分以上を占領するリムジンのような車が止まっていた。黒塗りで輝いている車体は、まるで新車同様だ。男はその車のほうへ歩いていく。
「え、まさか、あの男の車なの?」
 エミの言葉が男に聞こえてしまったのか、彼は一瞬足を止めると、後姿で少し笑ってまた歩を進めた。すると車の側に立っていた小太りの男が、彼に話しかけてきた。
「ハウパンド様ですか? 私、メイル・リシアシルファ村の村長のチョンメルヘルと申します」
「あなたが村長ですか。どうも初めまして、ハウパンドです。この度はお出迎えまでしてもらって済みませんねぇ」
「いえいえ、この村の発展はあなた様に掛かっておりますから――さあさ、車へどうぞ」
 男はハウパンドという名らしい。そしてそのハウパンドを迎えた、小太りでチェックの背広を着ている口髭を蓄えた男は、メイル・リシアシルファ村の村長のようだ。村長が直々に迎えに来るというくらいなのだから、このハウパンドという男は、余程の大物なのだろうか。
 ハウパンドと村長を乗せた車は、村のほうへと走り去ってしまった。残された三人はその車の影を見送った。
「トオル!」
 いきなりメイリに怒鳴られて、油断していたトオルはかなり驚いた。
「どうすんのよ、あの人、村の重要人物よ。何てことしてくれたの!」
「は!? お前だってよくやったって言ったじゃねーかよ!」
「あら? 私そんなこと言った?」
「言った! 絶対言った!」
 白を切るメイリに、トオルは慌てながら物証を探す。その二人の意味不明な喧嘩が続く間、エミは駅のエントランスを見回していた。
 駅の前にはロータリーがあり、中心部には植木がある。そしてその植木の真ん中から、高い土台の銅像が建っていた。その銅像は少女の姿をしており、椅子に座っていた。それは余り古いものではなさそうだった。エミはその近くに歩み寄る。高さは三メートルといったところか。そして顔を覗き込む。
(可愛い――。もしかしてこの人が、女神伝説の――?)
 幼い顔をしたそれは、今にも動き出しそうなほどリアルで、同時に、とても柔らかい笑顔だった。
 エミは再びロータリーを見回す。バス停を一つ見つけることが出来た。そこはまだ使われていそうだったが、なにやら張り紙があった。近寄って読んでみる。――ご用の方は、備え付けの呼び出しボタンを押してください。――あまりに利用者が少ないのか、定期運行は行われていないようだ。しかしエミには違和感があった。
(これだけ利用者が少ないというのに、なんで草が伸び放題とか、銅像の劣化とかがないの?)
 ロータリーの真ん中の植木の形はしっかり整えられており、道路の排水溝に枯れ葉が溜まっているようでもなかった。
『――お教えしましょうか――』
「え?」
 エミは見回すが、誰も居ない。トオルとメイリもその声が聞こえたのか、喧嘩をやめて見回している。
「メイリさん、今何か聞こえましたよね?」
 エミは二人の許へ駆け寄る。
「うん。たしか、お教えしましょうかって」
『こちらですよ』
 再びその声が聞こえた。再び見回すと、三人は同時に、銅像のほうにその声の主を見つけた。

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