scene57  雨に消えた影

 レイトが全て話し終えた頃、空からは大粒の雨が降ってきていた。二人とも話の前の姿勢から一寸も動いていない。
「――僕は、そんな奴なのさ」
 トオルは黙ったままである。静寂が支配するこの部屋には、地面を叩き付ける雨音しか聞こえてこない。この沈黙を破り、トオルは問いかける。
「賭博場の事件、あれは――」
「ああ、僕だよ」
 やけにあっさりだった。この態度が逆に妙だった。
「だからなんだ」
「?」
「あの時、僕が帰りたがっていたのは」
 あっ――と、トオルは思い出す。確かにあの時、レイトは帰りたがっていた。しかし何故、”だから”なのか。
「賭博場の被害者、死人は一人も出ていないだろう? 僕は誰も殺してないからね。だから、僕の姿形は、全員に知られている」
「――捕まりたくなくて、逃げようとしていたのか……」
「その通り」
 その口調は、クイズに正解したかのような言い方だった。検挙されるのではないかと言う不安などは、その声色からは感じ取れなかった。
(レイトの奴、なんかおかしいな)
 確かに今の彼はおかしかった。というよりも、トオルから見て、いつもの彼とは違っていたのだ。彼は危険な綱渡りはしないタイプだ。確実な手段を選んでいく。そしてBE社の追及など、恐れない。初めて出会ったときもそうだ。すぐに遺体が見つかるような場所で、殺人を犯した。そしてBE社が到着した後も走って逃げるだけだった。その後も付近に身を忍ばせるだけ。いくら殺人に慣れている者でも、あれ程簡単な隠れ方はしない。あれは見つかっても、まだ逃げられるという余裕がある隠れ方だった。
「そうだ」
 トオルの熟考を妨げ、レイトはあるものを取り出した。彼の手に握られたそれは、普段から頻繁にお世話になっている、ポケットケースだった。それを持って、彼はトオルの所まで歩いてくる。そしてそれを差し出した。
「もう一つ買ったんだ。君も持つといい。たくさんあっても邪魔にならないからね。トオルの持ち物はそこに入れればいい」
 軽く返事をして、トオルはそれを受け取った。
「それと、その中にあるものが入っているんだけれど、それは後で見て欲しいんだ」
「ああ……」
 もったいぶるような言い方をして、レイトはドアのほうへ向かう。
「ちょっと用があるんだ。だから、行くね」
「おう、――でも雨降ってるぜ?」
 言ってトオルは、親指を立てて、後ろ側の窓の外を示す。いいんだ――と、レイトは答えた。
「じゃあ」
「早く帰って来いよ。これからの行動決めようぜ」
「……ああ」
 レイトが部屋を出て行くのが、動きがいつもより遅く見えた。

 再び部屋には、雨音しか聞こえなくなった。トオルはやることもなく、ただ外を眺めていた。ホテルの出口の西側にある部屋の窓からは、ホテルの正面を通る道が見えるが、レイトの姿は確認できなかった。恐らく東側に行ったのだろうと、トオルは考えていた。ふと、ポケットケースの中身が気になった。
(そういえば、後で見ろって言ってたな。何でだ? なら普通に後で俺に渡せば――)
 そのことを疑問に思いながら部屋を見渡した。そしてたちまち、トオルの脳裏にはある考えが巡った。この部屋のどこにも、レイトの荷物はなかった。気付いたときには走り出していた。
 エミとメイリは傘を持ち出し、せっかくトーラーに来たのだからショッピングでもしよう、という話になっていた。出掛けることを伝えに、向かいのトオル達の部屋へ行こうと、自室のドアを開けたときだった。同時に向かいのドアも開き、とても急いでいるようなトオルが出て来た。
「トオル、丁度良かった――」
「後で!」
 話し掛けようとすると、その短い言葉を残して走り去ってしまった。
「ちょ、ちょっと! どこ行くのよ!」
 魔法石の恩恵を受けているトオルの足は速かった。すぐに角を曲がって見えなくなる。この理解不能の事態に、エミとメイリはただ、彼を追いかけるしかなかった。

 街に降り注ぐ盆雨は、数メートル先の視界すら妨げ、人々の足を建物から外へ向かわせなかった。歩いている人は殆どおらず閑散とした街は、ただ雨音だけが賑やかだった。その中を傘も差さずにトオルは走っている。彼はホテルを出るとすぐさま東側へと向かった。三階の窓から見下ろした東側の景色には、人影は一度も見ていない。
(――ざけんなよ!)
 トオルの足は一直線にあるところへ向かっていた。エミとメイリの二人は、微かに見える彼の影を追う。もう少し離されたら見えなくなりそうだ。
「メイリさんなら、トオルに追いつけるでしょ!?」
「でも私だけ行ったら、エミちゃんが私達を見失うでしょ?」
 トオルを追いながら、そんなことを話す。確かにエミはトオルの影は見えず、彼を確認しているメイリの影を追っている。メイリが見えなくなったら、見知らぬ土地で迷うことになる。

 トオルはようやくスピードを落とした。だが止まることなく徒歩に切り替え、すぐ目の前に現れた建物の中に入る。自動ドアをすり抜け、目の前に広がるのは、至るところに描かれた魔法陣。ここは、この世界で最初に着いた場所、トーラーのワープポイントだ。しかしその建物の中に、誰の姿も見えなかった。しかしレイトが来たかどうかは分からない。通常ならそう思いたい。だがそこには、彼が来たという明確な証拠が残っていた。
 トオルは目線を落とす。そこには、雨によって濡れた靴の跡がしっかり残っていた。トオルにはそれがレイトだという確信があった。あの初めて会った日、BE社の追跡から逃れるために登っていた階段で、トオルは後ろから捕まえに掛かった。その時、倒れこんだレイトの、靴の裏をはっきりと見た。それが印象に残っていた。その時と全く同じ跡が、そこに残っていた。
「トオル!」
 再び開いた自動ドアからは、後ろを追っていた二人が駆け込んできた。声にも物音にも気付いたが、トオルは一切反応をしなかった。無言のまま、先程レイトから手渡されたポケットケースの中身を調べる。中には手紙とキャッシュデータディスクが入っていた。トオルはおもむろに、二つ折りにされた手紙を開く。トオル、エミちゃん、メイリさん、と題された手紙には、こう書いてあった。
 ――皆へ、ごめんなさい。僕は行かなければいけないところがあります。それは誰にも教えられません。だけど、恐らく皆が望んでいないことだと思います。これは自分で決めたことです。これで僕のことを見損なったなら、僕を蔑んでも構いません。僕を憎んでも構いません。僕と縁を切っても構いません。僕を殺しても構いません。けれども皆は、僕にとって初めての、気の置けない人達でした。短い間だったけど、ありがとう。さようなら――。
 レイトらしい文だ。トオルは読みながらそう思った。特に最後の二行。自分のことを殺してもいいと書きながら、気の置けない人だったと、相手に慈悲を求めている。彼の過去を全て聴いたトオルには、そのような心境に至るのは当然だろうと思えた。その手紙は、読んでいる途中に髪から滴った水で濡れて、哀愁をより一層強めていた。
「ちょっと! 何なのか説明しなさいよ!」
 メイリの怒号に、トオルは思わず持っている手紙を落としそうになった。しかし強張った表情を崩すことなく振り返る。
「ホテルに戻って話す」
 雨は激しさを増していた。

<<<   >>>