scene55  レイトの過去 -前編-

 小さな靴がたとたとと小さな音を立て、泥の煉瓦で出来た階段を一段ずつ下りていく。階段を下りきると左手前に、他の部屋に通じる口が開いており、そこから光が廊下に漏れている。
「お父さん、お母さん」
「どうした? レイト」
 覗いたのは子供。大きく開けたその部屋は、この家のリビング。そこに二人の男女。二人は夫婦であり、その子供、レイトの両親である。この親子はまさに、親子と言う感じであった。レイトは二人の特徴を半分ずつ綺麗に貰ったような子だった。青い髪と青い眼は母から、鋭い眼光と整った眉毛は父から。
 この家庭は誰もが羨むほどの仲良し家族だった。

 ある日、父親に呼ばれたレイトは、階段をゆっくり下りて父親の許へ向かう。彼の前に立つと、そっと大きな手が差し出された。
「レイト、これをあげる」
 咄嗟に両手を皿型にして差し出すと、それは父親の手の中から落ちてきた。その楕円体の石は青く輝き、見るものを魅了させた。
「これなに?」
「これを大事に持っていなさい。大きくなったら、これが何か教えてあげるよ」
 子供心に、これは大切なものだ――と感じ深く頷いて、それを握り締めた手を胸元へと持ってきた。

 その日はいつに無く穏やかな風が吹いていた。空には無数の星たちがまるで競うように輝き放っている。既にレイトはベッドに入っている。ベッドと言っても、お粗末なものだ。世界全体が貧しいここでは、まともな家すら建てることが出来ない。泥の煉瓦で出来たこの家は雨に弱く、二、三日の雨なら耐えられるが、五日も降り続いてしまうと、泥が溶け出していつ崩れてもおかしくない状態になってしまう。それは彼らが暮らす村の者の家、全てが同様だった。
 扉をノックする音が聞こえ、立ち上がり応対に行ったのは夫のマルクスのほうだった。扉を開けるとそこには、見たことも無いような大きな人間が立っていた。
「マルクス・セールメントさんですね? あなたは業務上過失致死傷罪に問われていますので、任意同行を求めます」
 銀色の髪とその鋭い眼でマルクスを威圧する。彼はこの大男が誰か、知らなかった。この男は、犯罪者撃退組織バッドネスエクスターミネーター社、通称BE社を束ねる統長ボート・K・デートだ。この人物はかなり有名だった。だが恐らくこの世界の住人は、殆どがこの名を知らないだろう。何故ならば世界自体が貧しいゆえ、新聞、放送などを行っても、それを利用する資金が無い市民が大半なため、それらの仕組みが成り立ってなかったからだ。
「何なんだ一体! 俺はそんなことはしてないぞ!」
 突然の大声が家中に響き渡り、レイトは夢の中から現実に引き戻された。何が起こったのか分からずに、レイトは寝ている部屋のある二階からゆっくり階段を下り始めた。
「だから、罪は罪なんですから、真摯に受け止めてください」
 ボートの感情の篭っていない言葉が、マルクスの神経を逆撫でする。横でレイトの母であるルリカは、ただ何をしていいか分からずおろおろしているだけだった。そしてやっとの思いで口を開く。
「あの、主人は、……何をやったと言うんですか」
「だから、業務上過失致死傷罪だと言っているでしょう」
 半ば面倒くさそうに言い放ったその言葉により、マルクスは行動を起こした。完全に頭に来てしまったマルクスの手は、ボートの胸倉をわし掴んでいた。ボートはそれを、何の感情も篭っていない眼で見下ろす。マルクスはボートの胸倉を掴んだが、手を頭の位置より高く上げて掴んだために、然程力は入らなかった。
「俺は何もしていない! さっさとこの家から出てけ!」
 その怒声が家中に響いた頃、リビングと廊下をつなぐ口からレイトが覗いていた。その時彼は無意識に、出て行ってはいけない――と考えた。
「……公務執行妨害ですよ」
 暫くしてボートが低く呟くと、マルクスの体に衝撃が走った。気付いたときには、ボートが握った刀剣が胴を貫いていた。その一メートルもあろうかという刀剣の半分くらいまで、マルクスの背から突き出していた。切先には血糊がたっぷり付いており、それが床に滴り落ちる。
「きゃあああ!」
 ルリカの叫び声が響き、ボートは刀剣をマルクスの体から抜く。彼はそのまま力なく倒れこんだ。腹と背からおびただしい量の血を流し、口からも吐いている。素人目に見ても、既に生きていないことは分かった。この現況に、ルリカは大粒の涙を流しながら訴える。
「どうして……! 何故、主人は殺されなきゃ――」
 ――ならないんですか、と続けるつもりだったが、そこから声が出なかった。夫が死んだ衝撃と、悲しみによる嗚咽のためだった。この問いに、ボートは答える。
「それは、――最初から殺すつもりだったから――ですかねぇ……」
 その言葉を耳にした時、ルリカにも衝撃が走った。目の前を赤い筋が通ったかと思った刹那、それは自分の顔に付着する。その付着物は暖かかった。それが何なのかは、間を置くことなく分かった。右横腹から左肩にかけて灼熱を感じ、直後に痛みに変わる。先程顔に付いた暖かいもの、赤い筋は、ボートの刀剣から弾かれた自分の血だった。痛みを感じたのはほんの一瞬。すぐに意識を失って、彼女はその場に倒れた。
 二人の男女からはおびただしい量の血が流れ出し、リビングルームの床一面にそれは広がる。それはまさに血の池と表現が出来るくらいだった。
 廊下からその様子を伺っていたレイトは、茫然自失とした。体は全く動かず、視線も両親の屍に固定されたままだ。
「真魔石に関する資料を探せ」
「はっ」
 ボートは部下と見られる二人の派遣員に言を告げる。それを聴いた派遣員は、リビング中を捜索し始めた。依然硬直したまま両親を眺めているレイト。目の前で突然惨殺され、声も出なかった。目の前の事態が信じられない――いや、小さな子供の頭では状況さえ殆ど理解出来るはずがない。だがついに彼の足が動いた。状況がどうであれ、自分の両親が目の前で血だらけで伏せているのは確かなことだ。この時子供が親の側によるのは、動物の本能としてある。たどたどしい足取りで、混乱しながら一歩ずつ両親のほうへ歩みを進める。しかしリビングの真ん中から一歩も動いていないボートに、見つからないわけはなかった。彼はずっとレイトを視線で追っていた。彼の眼は最初からレイトを捕捉していた。そして静観していたのだ。
「生きててもらっちゃ、困るな」
 ある程度二人の屍に、レイトが近づいた頃に言葉を発した。その瞬間ボートに握られていた刀剣が素早く振られ、その家のリビングの床に伏せた体が、一つ増えた。

「真魔石に関連するようなものは、何一つ発見できませんでした」
 小一時間家中を調べまわった派遣員が、ボートの前に敬礼して報告する。
「そうか。――では帰るぞ。現場は放っておけば、明日にでも通報が来るだろう。その時は隠蔽工作を忘れるなよ」
「はっ!」
 身を翻して建物を出て、ワープポイントへ向かって歩いていく。
(――まあ元々、罪状自体も虚偽で、殺される理由も無かった奴らだ。情報は見つからなかったが、大した手間じゃなかったな)
 ボートは微かに笑いながら、夜の街から姿を消した。

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