scene130  信じたものは流れ去り

 デーヴィスとマスマティとサンドスが、坑道の奥から戻ってくる。ジョージは、振動のショックでエンジンが動かない掘削機の機械部をのぞきこんでいる。ノードとトオルは坑道内に散らばる工具などを拾い集める。テジックは坑道の先端、掘削機のそばでただ座り込んでいた。
「ダメだ。坑道の真ん中あたりがほとんど埋まってるだとよ」
 デーヴィスが舌打ちするとサンドスがびくつく。サンドスは何も悪いことをしていないし、デーヴィスも彼を責めるつもりではなかったが、それでも染みついた癖のせいでその仕種に反応してしまう。実際坑道の状況を推測したのはサンドスであるから、彼の性格からすると人の顔色をうかがうしかないのだろう。
「しかしマスマティ、サンドスの鑑定は本当に正しいのか?」
 ここで初めてデーヴィスはサンドスにも話題の切れ端を触れさせる。サンドスは余計にびくびくしだしたが、それをかばうようにマスマティが返答する。
「間違いないです。自分より彼のほうが地質には詳しいですから」
 マスマティは少し毒気を込めて言う。これまで配置転換を促しても聞く耳を持たなかったことと、坑道の崩壊後のデーヴィスの態度に対する小さな反抗でもあった。
 坑道の損傷の程度を確認するためにマスマティを連れ、マスマティはサンドスを連れて入り口方面へ向かうときだった。デーヴィスは、大丈夫って言ってたのにどうなってんだぁ? と、いらつきを見せていた。マスマティは、発破作業が行われることを隠してきたデーヴィスのその言葉に憤りの火を灯していた。
「ジョージ、どうだそっちは?」
 デーヴィスの声に、ジョージは無言で首を振る。
「パーツの爪が折れている。そのせいで起動装置が固定できなくて空回りしてる」
 デーヴィスが何とかならないのかと問う前に、ジョージはその表情を読み取って、どうしようもないと言葉を続ける。この場に機械を修理する道具などあるわけもなく、完全にお手上げ状態である。

「終わりだ……」
 つぶやいたのはテジックだ。坑道の先端に座り込み、青ざめた顔でどこともないところを見つめている。
 実際彼の言うとおり、状況は絶望的どころではない、必死の状態だ。坑道は複数個所崩落しているうえに、脱出しようにも掘削機は壊れてしまった。救助を要請しようにも無線機は持ち合わせておらず、かといってただ待っていても食料もない。それどころか酸素を供給するダクトや機械も土砂に押しつぶされて機能していないので窒息も時間の問題だろう。幸い崩壊時に噴出した水は一瞬だけで、すでに地面にしみ込み切っている。しかし今や頼りになるのは、各々の手持ちの小さな水筒と、ヘルメットに取り付けられた小さなライトだけだ。
「あ、あんたがたが、さっさと坑道から出ていけばこんなことには……っ!」
「それをいうならてめぇらが発破なんかすっからだろうが!」
 再び始まった怒鳴りあいも、先ほどより明らかに威勢がない。周囲もこの状況にとめる気力する起きない。デーヴィスとテジック自身も二言三言で会話が止む。もはやこの場で死を待つしかないのだろうか、そんな思いがだれしもの頭をよぎっていた。
 そんな思考はトオルの頭にも浮かんでいた。脱出する術はないし、救助なんか待ちきれないだろう。作業で体力も消耗しているうえに高温多湿の環境で永らえられるとも思えない。だが他の作業員に比べて、トオルだけは不思議と絶望深くには落ちてなかった。
(そうか、俺は地球に帰れずに死ぬのか)
 至極冷静に頭の中でその言葉を反芻する。そのたびに心は落ち着いていき、そしてこれまでのことを思い返す。
 変な石を拾って三八界に飛ばされたかと思えば、ユカと出会って魔法石の使い方を身につける。レイトとは彼が殺人を犯すところから知り合って、あとからエミが合流。メイリと知り合って、すぐに一人でレイトは消えていった。フェアリーでは精霊たちと会って、この世界の歴史を知る。ファイヤーが真魔石を持ってキルを恨んでて、カーシックはジュラに殺された。でもそのジュラも消えた。そしてエミとメイリが拉致された。この前の大会の時は窃盗犯だったベルナークを捕まえて、アシアス、クレア、ドーランに見送られてこの島に来た。
(あ、やべ、これってあれじゃね。死ぬ前に見るあの、なんとかってやつ)
 走馬灯の三文字が浮かばない、地べたに座ってもたれかかってるトオルの視界には、暗闇に浮かぶ六つの灯りが目に入る。作業員たちのヘルメットのライトだが、トオルにはそれが夜空に浮かぶ星のようにも見えた。
(――死んで星になったら、こんな景色が見えんのかな)
 いくら冷静とはいえ、プラスの方向には思考は働かなかった。これまで多くの出会いと別れ、そして死を経験してきたトオルには、それはとても身近なものに感じられている。だから恐怖がないというわけではないが、いつ自分の身に降りかかってもおかしくないことを理解していた。

 嗚咽が聞こえる。おそらくサンドスのものだろう。彼はきっとこのような状況に弱いように思える。ぼそぼそと震えた声を出すのはテジックか。同じくつぶやきながら、同じところを行き来して足音を立てているのはマスマティのようだ。なにか考え事だろうか。ノードとジョージの気配はしない。二人ともその場で静かにしているのだろう。デーヴィスは愚痴をこぼしながら、時折壁や地面に向かって八つ当たりしている。
 トオルの頭の中には、今度は中学校生活の記憶がよみがえる。仲の良かった友達のことや、いがみ合ってる者たちと殴り合いのケンカをしたこと、サッカー部でエースストライカーだったこと。あの時は今のような命の危険が迫るようなことはなかった、ただ自分の思うままに学生生活を満喫していた。現状とのあまりの落差に、その記憶か、今この瞬間か、どちらかが夢なんじゃないかとも思えた。
「おいマスマティ」
 デーヴィスが不快感を隠さない口調で言葉を投げる。
「うざってぇんだからうろうろすんじゃねぇよ」
 怒鳴るような口調ではない。静かに怒気をこもらせた声。その声にマスマティは歩みを止めて、デーヴィスを見やる。お互いのヘッドライトに照らされて、周りからも彼らの表情が読み取れる。
「社長だからと言って、そのような言い草は聞き捨てなりませんよ」
「あぁ? わしはただ、うろうろすんなって言ってるだけだ。こんな状況で目の前うっとうしくちゃやってらんねぇだろぅが」
「自分だってこの状況に辟易してるのは同じです。いざ絶望を前にして落ち着いていられるわけないでしょう」
「だから落ち着かせろって言ってんだよ。――ちっ、お前の意見を鵜呑みにして作業を始めたわしがばかだったってことか?」
「自分の判断は間違っていたとは思いません。社長が発破作業を無視して強行したことこそ問題でしょう」
 地質の調査を行って、作業可能だと判断したのはサンドスである。しかしデーヴィスの分担した役割上ではそれはマスマティの仕事だ。彼は、サンドスが気弱な性格でもあるのでそれをも考慮して、自分が判断を下したというていで話を進めている。
「会社の存続が懸かってんだ、むやみに作業止められてたまるかってんだ。ったく、わしの配置ミスだな」
「その通りです、社長の配置ミスです。二度もメンバーの配置転換を訴えましたけど、聞く耳を持たなかったじゃないですか」
「わしはわしでお前らのことを見て、納得して配置してるんだ。黙ってついてくればそれでいいんだよ!」
「社長は自分たちのことを見てはいません! この際だから言いますが、社長のやってることはワンマンプレーです。そんなリーダーには自分は付いていけません」
 この言葉にデーヴィスはいよいよ体を持ち上げる。わずかなライトの灯りよりもはっきりと分かる、濃い怒りの空気が漂ってくる。まさに一触即発。次にどちらかが売り言葉を口に出せば掴みあいのけんかになることは必至だろう。周囲の空気が張り詰め、この二人の生への焦燥とも取れるような緊張感と怒りが他の人間にも伝染し始める。
 そんな中、トオルだけはこの雰囲気に、かつて中学サッカー部時代に犯した自らの失態を思い出していた。この絶体絶命の状況下でそれを思い出した理由、それは目の前で繰り広げられるマスマティとデーヴィスの対立が、その時の自分が体験したことと酷似していたからだった。
 サッカーの対外練習試合を行ったときのこと。チームリーダーであったトオルは、そのころワンマンプレーが目立ち、他の部員からの求心力をなくしていた。そしてその練習試合中に突然部員たちが反旗を翻し、トオルの指示を無視し始めた。そのハーフタイムでの口論と、まさに目の前の光景がダブって見えたのだ。
「はは、んっとにガキ臭いな……」
 トオルのその嘲笑じみた言葉は、にらみ合いを続けていたマスマティとデーヴィスの耳に入る。より反応したのはデーヴィスのほうだ。
「なんだと?」
 トオルは過去の自分に対して言葉を放ったつもりだが、その場にいる人間にはそうは聞こえない。言い争っている二人以外は、水を差すトオルに緊張が高まる。
「眼ってのは意外に節穴なんだよなぁ。自分でこうだと思い込んで、実際ぶつかり合ってみると全く違う反応が返ってくる。そりゃそうだ。これまでそいつらとどんなふうに接してきた? 必要はないからって最低限の会話しかしてないんじゃないか? コミュニケーションってそういうことじゃないよな」
 突然トオルの体が少し浮き上がる。かろうじてつま先が地面に付いている。デーヴィスがトオルの胸ぐらをつかんでいた。
「いいかトオル。働く歳じゃねぇおまえにはまだ大人の世界がわからねぇんだよ。適当に口はさむんじゃぁねぇ」
 トオルはここで我に返る。先ほどの言葉もデーヴィスに向けて言ったものではない。過去の愚かな自分に向けた諫言だ。本来なら口に出ることはなかっただろう。だが、デーヴィスの先を促すような言葉に反射してしまった。いつもならここで思考がこんがらがるはずなのだが、なぜかこのときだけは状況をすぐに理解した。そして、デーヴィスを見据えて言葉を続ける。
「デーヴィスさん、みんなの趣味、知ってるか?」
 デーヴィスは怪訝な顔を見せる。
「わしはプライベートにかかわらん。誰の邪魔もしたくねぇし、仕事の場以外で気ぃ遣わせたくないからな」
 トオルはその返答を聞くとただ、そっか、と一言返すだけで、その発言の中身については深く追及しなかった。ここでデーヴィスを攻め立てる言葉は簡単に思いついたが、その選択肢をトオルはいともたやすく捨てた。それを彼に投げかけるなど、自分の言えたことではないとトオルは思った。
 しかしトオルはデーヴィスに対する返答自体を放棄したわけではない。
「俺はみんなの趣味を知ってる。みんなもみんなの趣味を知っている。だから思うんだ。悪いけど、デーヴィスさんのポジション分けは間違ってる!」
「なんだとぉ……っ!?」
 自分の采配は間違っていると、この現場に来て一ヶ月足らずの十五歳の子供に言われるとなると、平常心でいることのほうが難しい。しかしここで感情をあらわにせず対応するのが大人というものだが、この生死のかかった状況でそれができるほどのタフな精神を持っている者などいないだろう。デーヴィスの眉間のしわは見たことないほど深く刻まれ、横に広がった口からのぞく歯はぎちぎちと音を立てている。トオルの胸ぐらをつかんでいない左手の拳は、力んでいかにも石のようになっているのが分かる。
 このままデーヴィスの感情が爆発すればトオルが危ないとマスマティたちは直感する。そして彼らがデーヴィスを抑えに踏み出そうと思考が動き始めると同時に、トオルはその動きを察知する。そして彼らの思考が体への命令を送る前に口を開いた。
「こんなときまで我慢すんなよ! 独断プレーなら今がその時だろ!!」
 坑道の隅々まで響き渡るほどの大声は、マスマティらの眼を覚ました。
「確かにトオルの言うとおりだ。こんな状況になってまで社長に決められた通りにしなくていいんだ」
 マスマティが決意のこもった言葉を吐くと、それぞれ座り込んでいたノードとジョージが立ちあがる。しかしサンドスは震えている。彼にとっては生死と等しく、その後のデーヴィスからの叱責が恐ろしい。それを見かねたマスマティが彼のそばに寄ろうとするのを、ジョージが遮った。
「サンドス、大丈夫だ。俺が盾になる。だから立て、自分の意志で」
 これにはデーヴィスを含めた全員が驚いた。普段めったなことではあまりしゃべらないジョージが雄弁をふるう。その絶対的な響きをもった一文字一文字に、サンドスには間違いなく、ジョージが窮地を救ってくれる救世主に見えただろう。震えはぴたりとやみ、落ち着いた様子でゆっくりと立ち上がった。元々そうだったのか、眉毛はハの字のままだったが、彼の気負いはもうなくなっているようだ。
「じゃあみなさん、それぞれ自分のできることをやってみましょう」
 マスマティの喚呼に全員がうなずきまばらに散る。その様子を見ていたデーヴィスはようやくトオルの胸ぐらから手を離した。
「おいお前らぁ! なに勝手なことをしてるんだぁ!」
「デーヴィス」
 わめくデーヴィスに話しかけたのはノードだ。
「僕たちも命がかかってるんだから、大目に見てよ」
 穏やかな表情で穏やかな口調、そしてデーヴィスにも敬語を使わない。至極いつものノードだ。だがその至極普通なのが、デーヴィスに異様な威圧を与え、黙らせたのだった。
 トオルらが生き埋めになってから二時間以上が経過した。ついさっきまで重たく淀んだ空気が充満していたが、今は少し熱を持ち始めている。マスマティらがあがくことにより、状況に少し変化が見えたからだ。
 それは、サンドスが坑道内を歩き回って見つけた特定の土の層がきっかけだった。その土は水分を含むと粘性が増して餅のようになり、その状態で成形して乾かせば非常に硬くなる性質を持っている。この土の性質を利用して、掘削機の折れたパーツを修復できれば状況はかなり好転する。ちょうど崩落してむき出しになったところにその層が表れていたので、偶然が味方したともいえよう。そして、この中で圧倒的な地質に対しての知識量を誇るサンドスでなければ、他と見分けのつきにくいこの土を発見することはなかっただろう。
 しかしパーツの修復といっても容易ではない。爪の折れた一ヶ所だけを作れればいいのだが、適当な形、大きさに成形しなければならない。設置個所は奥まったところにあり、実際に手をあてがった感覚や目測で作るしかなかった。
 だがその問題も容易に解決することとなった。マスマティは自らの指先や目視でほぼ完ぺきな寸法を割り出した。自らの手持ちの水を使って成形し、乾かして凝固する際の収縮率まで計算しつくされたそのパーツは、まるで予備部品かのように綺麗に破損個所へと収まった。
 そしてついに掘削機のエンジンをかけることに成功した。先端のドリルも景気良く回転し始める。これにはデーヴィスも含めてその場にいた全員が感嘆の声を上げる。
「や、やりましたね、ジョージさん」
「ああ」
 サンドスの喜びの声に、ジョージは短く答える。
 掘削機の復活には、実はジョージが一番貢献している。本当は、稼働をあきらめるほどの重大な損傷が複数個所あったのだ。しかしここを脱出するには掘削機が必要不可欠と判断し、早々に修理に取り掛かっていた。自力移動するための駆動部から部品を調達して、機械中枢へと転用する。そのせいで掘削機単体での自力移動はできなくなったが、本来であれば動かなかったはずのドリルを使用可能な状態まで復元し、あとは折れた詰めさえ何とかなればというところまで修理した。まるで機械技師のような彼の腕がなければ、ここまでは辿りついていない。
「…………」
 掘削機が復活した際には喜びの声を上げたデーヴィスだが、今や心中は複雑だ。自分が指示した担当とは違う分野で活躍する作業員。決して部下たちのことを蔑ろにしていたわけではない。配置転換の声を聞かなかったのも、自分の見た部下たち、そして経験を信じ、“やりたいことが得意なことではない”、と言い聞かせるつもりだった。だがコミュニケーション不足ゆえ知らなかったのだ。それは全く逆で、“得意だからやりたかった”ことだということを。
 気付くとデーヴィスの横にはノードがいた。掘削機を囲むマスマティたちを見る彼の表情は満足そうで、今のデーヴィスにはそれが安堵に見えた。自分たちの頭領は間違いを自覚したからもう大丈夫だ、と彼の顔から読めたからだ。
「ノード、そういえばお前は何もやってねぇじゃぁねぇか」
 デーヴィスの小さな抵抗、というよりもそれは間違いを認めた照れ隠しに近い。彼の横の小太りの作業員は、笑顔で見上げてくる。
「ん? 僕の出番はこれからだよ」
 いつもの様子で言葉を返すと、ノードは他のメンバーのもとへ歩き出す。
「あ、ノードさん。ノードさんお願いします、ここから地表への最短距離を」
「ん」
 彼の頭の中にはこの島の地形がすべて入っている。趣味の地形図作りがここで役に立つ。数週間前にこの島の測量はすべて終わった。そして一度測量した土地の地形は決して忘れない。ノードは頭の中で地形図を広げ、マスマティから坑道の長さの概算を助言してもらいながら、すばやく答えを叩きだした。

 ノードの測量によって導き出された地表への最短ルートへドリルの先端を向け、一旦切っていた掘削機のエンジンを再び入れる。さあ仕事はまだかとドリルは金切声をあげる。自力走行ができないので、採掘メンバー総出で掘削機を押して動かす。運転台には、体重が一番軽いトオルが乗ることとなった。
「なあデーヴィスさん、本当に俺でいいのか?」
「ああ構わねぇよ、こんなときだからな。それにきっかけを作ったのはトオルだ。おめぇが相応しい」
 デーヴィスが、仕事中は決して他人に乗らせない運転台。操作は見ていれば覚えるほど単純だし、ここの作業員なら誰でも運転ができる。それでもトオルが選ばれた。
「それに力じゃあおめぇより俺らのほうがあるからなぁ。だったら押す側やんねぇとな!」
 デーヴィスはしゃがれ声で大笑いする。どこか雰囲気が変わったことにマスマティらも気づいており、デーヴィスと一緒に笑う。
「その通りですね、社長。我々が力で子供に負けるわけにはいきませんね」
「ぼくもまだトオルくんよりは力に自信があるよ」
 マスマティに続いてサンドスも笑顔を浮かべる。ジョージから励まされ、起死回生の起爆剤となる土を発見し、デーヴィスの雰囲気も変わったように感じ、彼に覆いかぶさっていたはずの気負いはほとんど見られなくなっていた。
 ふとデーヴィスは坑道の奥のほうを見る。暗がりの中に浮かぶひとつの小さな明かり。テジックはいまだに自分を抱きかかえるように座り込み、体を震わせている。
「おい、おめぇも手伝え!」
 呼びかけてもほとんど反応を示さない。さっきから彼はこのままだ。何度か声をかけているが、トオルたちの作業を手伝おうとしない。それはトオルたちに与するのを拒んでいるのではなく、恐怖と絶望に支配され、すでに生を投げだしていたからだった。
「おい、助かりたかったら手を貸せってんだよぉ!」
 ずかずかと近づいたデーヴィスは、トオルにしたみたいに胸ぐらをつかんで持ち上げる。自立しようとしない彼さえも易々と自分の目線まで持ち上げるのだから、やはりデーヴィスの腕相撲ナンバーワンの名は伊達ではない。しかしテジックの目に精気はない。
「だ、だめなんだ……僕は、僕はここで……死ぬんだ……」
 作業の中止を命じにここへやってきたときの威勢はどこへ行ったのか、ビジネス用の皮はすべて剥がれ、本心が表情に表れている。今の彼に、強がるなんてことはできないのだろう。
「死なねぇよ! 生きるためにみんな必死こいてんだろぉが。おめぇも手伝え」
「無理だ、無駄だ……っ。どうせここで――」
「ああーもう鬱陶しいなぁ!」
 デーヴィスはテジックの胸ぐらをつかんだまま、彼を掘削機の前まで引きずってくる。彼は抵抗せずなされるがままだった。
「よし、お前も押せ!」
「ああ……こんなとこにこなければこんなことには……」
「押せってんだ!」
 デーヴィスの覇気に押し負け――とはいっても恐らく抵抗する気もないだろうが――テジックも弱弱しく掘削機の後部に手をかける。
「行くぞぉ!!」
 デーヴィスの掛け声とともに掘削機を押し進める。トオルもハンドルをしっかりと握りしめてドリルを操作する。大人六人がかりで押される機体は、二十度近い傾斜をものともせず前進する。さすが採掘の現場で働いているだけあって、この上り坂を大きな機械を押して上がるとは感服ものである。

 ドリルが削った先の壁面が、ぬるりとたわんだ。ようやく地表に出られるかと喜びかけたが、ノードとマスマティの計算によれば地表まではまだいくらか距離が残っているはず。そう思考を巡らせたその時、壁面は大きくひび割れ、その瞬間大量の水と土砂が流れ込んできた。
「うわああああ!!」
 まるで巨人が手のひらで押し戻したかのような衝撃に、きつい傾斜で掘削機を支えられるはずもなく、トオルらはなすすべなく傾斜を転げ落ちる。一旦勢いがついてしまえば態勢は容易には立て直せない。掘削機もろとも全員が坑道まで流され、そこでようやく止まる。
「なんだってんだ一体……」
 誰の声とは知らないが、全員が同じ気持ちだ。何が起こったのか、ようやく理解する。掘り進めた穴の先から絶えず流れてくる土砂混じりの水。坑道の、穴を掘り始めた地点よりも傾斜の上のほうに避難する。
「ん……あとちょっとだったのになー」
 ノードがつぶやく。彼が言うからには、やはり地表まであとそれほどの距離はなかったのだろう。
「て、ていうか、こ、これどうするんですか!?」
 サンドスが慌てふためく。今は、常時怯えていたあの時のような表情を浮かべている。
 水流は思ったより激しい。この流れだと、恐らくぎりぎり上れないくらいの水量だと思うくらいだ。イメージするならば、鮭が川のぼりをするときにジャンプをするくらいの流れという感じだろうか。掘り進めた穴はきつめの上り坂で、もちろん手すりなどない。上ろうと思ってもすぐに足を取られるだろう。
「くそっ。どうしろってんだ……」
 トオルは地面を叩く。水は絶え間なく坑道に入り込んでくる。土砂で塞がれた個所を底に、みるみる水位が上がり迫ってくる。このままでは十分後にはこの行動は水没してしまうだろう。
「――そうだ。いっそこのまま待ってて、水がいっぱいになった時に泳いで出れば――」
「それで助かるとは限らない」
 トオルのひらめきに、マスマティが返答する。
「地下水脈かもしれない。……それに、昨日は嵐だった、今日もまだ雨が降っていた。それが地面にしみ込んで溜まっていたものかもしれない。そのどちらかならば脱出できるとは限らない」
「いや、でもさ、これ川なんじゃねーの? 川が崩れて流れてんならさ、外に出られんじゃん!」
「ん……このさきに川はないよ」
 ノードが冷たく答える。トオルの表情が徐々に曇っていて、最後にはその場に深く座りこむ。
 ここまで来たのに。やっと出られると思ったのに。自分はやっぱりこんなところで死ぬのか。一度希望を見ただけに、今度の死の覚悟はショックだった。足掻いて届かない扉。一つ一つ積み上げたものが崩れる感覚。
(ああ、他の作業員たちが坑道の崩壊であれほど落ち込んでいたのは、こういう感覚が襲ってきてたからなのか)
 彼らはトオルよりも長い人生を歩んできた、だからすぐにこの感覚を味わったのだ。
「ほら、やっぱり無駄なんだ」
 テジックが気が抜けた声で呟く。目はうつろで、先ほどよりも濃い諦念の色をしている。彼の言葉に、今度は誰も反応しない。テジックもそれ以上言葉を続けない。坑道の中には、水が流れ込んでくる音だけが響く。観光地で聞けば癒しとなるはずのその音は、無機質で、まるで今まで作り上げてきた人生を飲み込むような音に聞こえた。
 脱出のために掘り進めた穴の四分の一がつかるくらいまで、水かさは上がっていた。

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