scene126  はじけるちいさな気泡

 トオルの表情は決意に満ちていた。雇ってくれるように頼んだその言葉の裏に、対価を求めるような気持ちは微塵もない。しかし、デーヴィスの家に世話になるそのお返しとしての、当然ながらあるだろうその気持ちも持ち合わせていなかった。トオルの頭にあるのはただ一つ、この採掘場で働いている男たちのような力を付けたいということ。
「お願いします!」
 トオルは深々と頭を下げた。床にはデーヴィスの大きく濃い影が映る。
「――何を言ってんだ」
 デーヴィスの低い声が聞こえる。やはり雇ってもらえないのだろうか。子供だからか、客だからか、それとも非力だからか。しかしその予想は外れた。
「当然働いてもらわなくちゃぁな。宿賃代わりとしてよぉ」
 トオルは勢いよく頭を上げる。デーヴィスは白い歯をむき出しにしながら、眉を吊り上げている。
「ありがとうございます!」
「おぅ。まぁ、あとはどれだけ働けるかぁだな」
「頑張ります!」
 トオルに感じた違和感を、エミはここでようやく理解した。トオルは今のままではいけないという危機感を持っていたのだ。昨晩の腕相撲も、離れた場所からメイリと共に観戦していた。あの体格差なら負けても仕方がないのは分かっていたが、思い返せばその後の反応もトオルらしくなかった。
 普段のトオルならば、悔しさを表に出し、負けず嫌いを発揮していたはず。山を一人で動かそうというような状況でも、出来ないと分かりつつ出来ると言って猛進する。
 昨晩は、あっさりと受け入れていた。
 口では急がなきゃいけないなどとよく言って、先の大会出場も日にちのロスを大目に見てトオルとメイリの参加を許可したのは、エミ自身だ。日にちで言えば確かに寄り道かもしれない。しかし、実力で言えばそれは決して無駄ではなかった。
(私のほうが、焦ってたのかな……)
 エミは、まだ湯気の立つスープをテーブルの上に置いた。

 翌日、陽が昇って間もない頃にトオルは起こされた。トオルにとっては部活の朝練以来の早起きで、眠気が残っていながらも無理矢理体を起こす。
「さっさと準備しな」
 デーヴィスはトオルに準備を促しながら、小部屋の隅に置いてある作業着を指す。これはデーヴィスが昨日のうちに各作業員宅を余りがないかと回り、調達したものだ。
 トオルは手早くそれに着替えて、デーヴィスからやや遅れて居間へと出る。朝食と昼の弁当をこしらえるキワに朝の挨拶を済ませ、洗面所で軽く顔を洗う。鏡で自分の眼を確認すると、気合を入れるようにうなずいて居間へと戻った。
 エミとメイリが起きてくる前に、二人は家を出た。まだ薄暗い空を朝焼けが白く照らし出す。静けさが広がる島の中央には、陽の光を受けて白身を帯びた茶色の肌をした山が、いかつい図体を晒す。緑の木々は一部にしかなく、いびつな形をしている。所々に作業用の足場や骨組が確認できる。
 山の麓に着くと、想像以上に足場が悪いことが分かる。狭く険しいがしっかり整備された足場を登り、山の中腹に差し掛かると、ある程度平らな土地が開ける。そこにプレハブの事務所や様々な工機が並んでおり、作業服を着た男たちが何人もいた。
「よぉおはようさん」
 デーヴィスは、この採掘場に入っている四社の中小企業のうちの、一社の社長だ。デーヴィスが挨拶を交わしながら歩くと、周りの作業員は必ず挨拶を返す。トオルも彼を真似て挨拶をする。ここにいる男たちはもれなくこの前の酒宴に参加しているため、トオルを初めて見る者はいない。しかし作業服を着てこの場に現れたことには、驚く者やはたまた納得するような表情を見せる者など様々だった。
 デーヴィス採掘と看板が掲げられた小さな事務所の中は、折りたたみの長机が二台並べられており、いくつものパイプ椅子が自由気ままに居場所を取っている。長机と椅子の上には、雑誌やウインドブレーカー、空きビン、雑巾、紙コップ、筆記具などが統一性なく乱雑に置かれている。建物の全体像から見てその部屋は狭かったが、奥にドアが付いているのでもう一部屋あるのだろう。
 トオルたちが訪れた頃には既に二人の作業員が中におり、あとからまばらに作業員が入室してきた。

「全員揃ったか?」
 壁掛け時計が七時を指そうとしている頃、腰かけていた椅子からデーヴィスが立ちあがる。それに続いてトオルを含めた他の男たちも立ちあがる。
 採掘場で働く男たちのようなたくましい肉体に近付くために、トオルは採掘の仕事を志願した。デーヴィスは目の前に立つだけで威圧感のある男だが、他の者は案外そうでもなかった。もちろん、一般的に言えばたくましい男たちだが、命をかけた力仕事をやっているふうには見えなかった。
「監督、いつものごとく」
「あぁ? まぁたノードのやつか……。もうほっとけ」
 監督と呼ばれたのはデーヴィスだ。彼は作業員からの言葉に呆れかえった表情を浮かべる。どうやらノードと言う作業員が姿を現していないようだった。他は全員揃っているようなので、社員はデーヴィスとノードを含め十人と言うことになる。
「じゃあ作業を開始してくれ」
 デーヴィスの合図で、作業員は続々と現場へ出発する。この事務所から現場は視認できる距離にある。
 現場には、大人五人が並んで歩けるくらいの四角い入口の坑道があった。高さもデーヴィスの頭の上に拳一つ置くくらいだ。おおかたの工事用具はこの坑道内部に置かれている。各作業員は、持ち場に着くと手早く作業始める。
「おい、サンドス」
「は、はいっ」
 デーヴィスは持ち場に当たっていた一人の男を呼び出す。
「今日はお前ノードの代わりに環境整備やれ」
「わ、わかりました」
 サンドスと呼ばれた気の弱そうな男は、デーヴィスに言われる通り、今いた持ち場を離れた。
「よしトオル、お前はあいつらが掻き出した土砂を外へ運べ」
「はい!」
 トオルは威勢良く返事をすると、一度坑道の入口まで引き返す。そこには様々な道具や工機が散乱している。
「やっべ、どれ使えばいいのかわかんねぇ……」
 坑道の入り口付近には、様々な形のスコップや、土砂運搬用によく見かける手押し一輪車、何も入っていない麻袋などが散乱している。一見すれば一輪車を使うのが妥当だが、入口から作業現場まで片道で十分弱もかかるうえに、途中で二ヶ所のエレベーターが設置されており、どうもこの程度の容量では頼りない気がする。
(やっぱトロッコかな)
 坑道の入り口から内部奥深くにかけて狭軌レールが敷かれていた。それは作業場の眼の前まで伸びていたが、この往復路でレールの上に乗るはずのトロッコの車体を見ることはなかった。ただ坑道は途中で二手に分かれており、それぞれ奥からレールが敷かれ、入口付近では二線が並行している。お互いのレールは交わっていないものの、車体は片側の奥に行っているのだろうか。
 そんなことを考えながら唸っていると、トオルの元に男が一人近づいて来た。
「ん? どうしたんだい?」
 人当たりの良さそうな小太りのその男は、トオルたちと同じ作業服を着ている。
「もしかして、ノードさん?」
「ん? そうだよ、僕がノードだよ。きみはもしかして、デーヴィスが言っていた新入りかな? 昨日余ってる作業服がないかってうちに尋ねてきたし」
「はい、そうです、トオルと言います!」
 ところでとトオルは切り返して現状を説明すると、ノードはうなずくと笑顔でトオルを手招きする。招かれるまま付いて行くと、入口から数十秒もかからないところに、裏返しになったトロッコが放置されていた。
「おとといは月に一度の宴会だったからね。その前にこうやって軽く洗っておくんだ」
 そう言いながらノードは、半分かかっていたビニールシートを取り外す。
「さ、これを起こして行こうか」
「はい!」
 トオルはノードとともにトロッコを起こし、坑道のレールに乗せて作業場まで向かった。

 作業場に着く頃、そこはけたたましいモーター音が轟いていた。坑道の突端、土や岩の壁に向いている大きなドリルが、その狂暴な歯を高速で回転させている。岩石質が多い坑道の壁はその音を大げさに反響させて、作業員の聴覚を頼りなくさせる。
「おぅ、帰って来たか。――なんだぁ? ノードも一緒か」
 ドラム缶ほどの大きなドリルが付いたその掘削機は、先端をある程度可動させることができる。本体には人一人が乗れるほどの小さな操縦席があり、土台にはキャタピラが付いている。操縦席にはデーヴィスが居座り、これによって坑道を掘り進める。
「サンドス、ノードが来たからいつもの仕事に戻れ。そしてトオルにいろいろ教えてやってくれ」
「は、はい、わ、わかりましたっ」
 気の弱そうなサンドスと言う男は、肩をすくめながらトオルの許に向かってくる。彼は猫背気味で視線も地面に向いているように見える。背はトオルより高く体格も良いのに、その姿勢のせいでなんだか弱々しく見える。
「え、えっと、トオルくん?」
「はい、よろしくお願いします!」
「う、うん、ぼくはサンドス、よろしくね」
 サンドスは始終おどおどしているように見える。実際彼は気が弱く、一挙一動がデーヴィスの怒りの種とならないように、彼の目を気にしながら行動している。
(なんだか頼んないなー)
 トオルの感想はあながち間違っていない。サンドスが普段割り当てられている仕事は、トオルに割り当てられた、“土砂運搬”。これは単純に、デーヴィスが操縦する掘削機によって掘りだされた土砂を、外へと運ぶだけの仕事である。仕事自体は簡単だが、作業中坑道内を何度も往復するので、根気と体力がいる。
 体を鍛えることが目的のトオルにとってはこの仕事はまさにぴったりだが、サンドスにこの仕事が向いているとは思えなかった。
 サンドスに手ほどきを受けながらトオルは作業を続ける。いつもより多くの土砂をトロッコに積み、それを二人がかりで押して運び出す。この作業は予想以上に体力を消耗する。
 土砂や、採掘された鉱石、単なる岩など、それらをトロッコに積めば一〇〇キロを超えることもある。坑道内は起伏があるうえに、レールもトロッコも状態が悪い。上り坂では多大な力を必要とし、下り坂ではブレーキが壊れているため抑えながら降りなければならない。
(きっついな、今までやってきたどんな練習よりも――)
 中学時代のサッカー部のどんな練習よりも、三八界に飛ばされてきてユカのもとで修業した時よりも、どれよりもこの単純な労働のほうがトオルには応えた。

 サンドスと共に空のトロッコを押しながら作業現場まで戻る途中、トオルは彼が何かをつぶやいていることに気づいた。
「サンドスさん、なにつぶやいてんだ?」
 サンドスはそのトオルの質問と同時に口を閉ざして顔を背ける。僅かに見える表情からは、答えに窮しているように思えた。
「別に話せないならいいんだ。気になっただけだから」
「――――ち、地質だよ」
 サンドスはやおらトオルに顔を向けると、あのハの字の眉を緩ませる。
「地質?」
「あ、ああ。ぼくはこの通り、人と対立するのが苦手でね……。だからそうならないように、眼を合わせないように下を向いて歩いてたんだ」
 サンドスはトオルから目を反らすと、再び地面を見ながら歩を進ませる。
「ある日気付いたんだ。足下にも、様々な世界が広がっていると――」
 土、砂、小石、行く先々で違う表情を見せる彼らは、サンドスの呼びかけに応えはしないが、対立することもない。しかしその多様な表情に魅せられ、彼は地質学にのめり込んで行った。それから転じて、火薬や爆薬の知識も深くなっていった。
 サンドスがこの話をしている最中、トオルが最初に受けた気弱そうな印象は薄れていた。地面を見ながら、まるで旧知の親友との思い出を語るようなその表情は、見ている者の気持ちをも落ち着かせる穏やかさを持っていた。彼の親友を語るその目は輝いて、言葉も流れるように溢れる。端々に見えるその愛情は、紛れもなく本物だ。
「サンドスさんって変わってるな」
「――えっ」
 笑いながら言われたトオルの言葉に、サンドスは語るのをやめ、硬い表情をしてうつむく。その変化にトオルは何があったのか理解できない。ただ、なにか焦りを含んだような負い目を醸し出す雰囲気から、彼の気に障るようなことを言ったのだと、何となく感じる。
「別に悪い意味じゃないぜ? それほど土について思い入れがあるなんて、本当に好きなんだなって。他のやつらとは全然違うなって」
 サンドスは眼を見開いてトオルの顔を伺う。トオルと目が合うとすぐに視線を反らす。
「そ、そんなふうに言われたの、は、初めてだな……」
 先ほどとはうってかわってサンドスは笑顔を見せる。
「今まで人には、ば、ばかにされてきたから……」
 彼の表情は心から満足を表している。サンドスにとってこのように真正面から肯定の評を受けたのは初めてだった。これまでは、否定されずとも理解されることはほとんどなかった。彼は次第に周囲を気にし、本当の気持ちは隠すようになっていた。しかしふと話した本当の気持ちを、トオルは受け容れてくれた。初めて会話したのもつい数時間前だというのに、隠していたその気持ちを話している自分も不思議だった。

 ディガップ島は、陽が昇りきるととても暖かくすごしやすい。ただ運動をするとなるとしっかりと汗をかいてしまいそうだ。
 そんななかエミとメイリは、キワに連れられて島の外周を歩いていた。テジックの勤めているプレイスメント工機の外側にあった、もう一本の大きな道だ。
 なだらかなカーブ描いて伸びる道路は広く、海沿いのためか脇に木々は見当たらない。島側は高い崖になっていて、その上にはプレイスメント工機の社宅マンションが並ぶ。海側には塗装がはげて所々錆びているガードレールが蛇のように這っている。
 数分歩くと、こじんまりとしながら無骨な一つの建物と、小路で区切られた広い土地が目に入る。
「キワさん、ここは?」
「ここはね、お店と畑よ」
 そう言ってキワは、一つの小さな畑のほうへと二人を連れていく。
「ここが、わたしの担当」
 そこには手の中にすっぽり収まりそうな身を付けた、背の低い植物が並んでいた。広さも六畳間ほどしかない。
「これを栽培して、あっちにあるお店に卸しに行ったり、うちの料理に使ったりするの」
 キワは二人へこの植物の栽培の手伝いを依頼した。これがエミとメイリに対する宿賃代わりの一部だ。キワの説明を聴く限りさほど手間ではない。二人はキワに教わりながら一通りの手順をこなす。
 その他にもキワに付き添い、生活上必要なこの島における知識を様々教授された。だが可住地域が狭いこの島の事、陽が沈まないうちにそれらの説明は終わる。デーヴィスやトオルらが現場から帰ってくるまでの間、二人は自由な時間を過ごすこととなった。

 二人は畑へ向かう道の途中にある、見晴らしのいい休憩所へ向かう。先ほど見つけたこの場所は、道路から飛び出た高台になっており、道に沿って這っていた無機質で無表情なガードレールも、どこかの観光地のように木で組み上げた手作り感のある柵になっている。しっかり管理されているのだろう、これほどの潮風晒される場所で劣化の見られない柵は、しっかりと地に立っている。
 いくつか設えられた木製のベンチに二人は腰かけた。穏やかな風は潮の香りを二人へ運ぶ。真昼よりは涼しくなり、生ぬるさを感じないその風はとても心地よかった。
 少しの沈黙の後、エミが口を開いた。
「メイリさん、私たち、ここで何ができると思いますか?」
 これにメイリは即答しない。彼女自身も密かに同じことを考えていたからだ。メイリが発すべき言葉をまとめきる前に、エミは言葉を続ける。
「この島に来てからのトオルを見ていて気付いたんです。私よりも、トオルのほうが今を感じ取っていたって。確かにトオルはあまり先のことを考えるタイプではないし、私のほうがそれについては考えていた。けど、このままじゃいけないってことを、一番肌で感じ取っていたんじゃないかって」
 お互いは目の前に広がる海を見つめたまま、お互いに顔を合わせない。そして次に言葉を発したのはメイリだった。
「そう……かもね。何も考えてないように見えるけど、いろんなことに対して先陣を切って行ってたのってトオルだもんね。比べて私はどこか気が抜けてた部分があったのかも。こう……、仲間が出来てから……。ダメね私」
「そんなことないですよ」
 エミは初めてメイリのほうを向く。
「メイリさんが一緒になってから、私、トオルに怒鳴る回数がかなり減ったんですよ? ほら、メイリさんとトオルがよく口喧嘩するじゃないですか。だから」
 メイリがエミの顔を見ると、笑顔を浮かべているその中に、僅かに寂しさが含まれているのが分かった。エミの性格からして、直接的には言わない。自身のその感情よりも、この関係のバランスを崩す方が、この三人の旅において危ういことを、感情が深まるたびにエミは理解していったからだ。
 メイリはエミのその表情からそれをくみ上げることができた。薄々抱いていた考えがそれによって一層確信へと近づく。だからメイリは、エミのそれにむやみに触らないように、しかし傷付けないように、慎重に言葉を選んだ。
「うん、これからは気を付ける」
 それから二人はほとんど言葉を交わさず、それぞれが思考の波の中で羅針盤とにらみ合い続けた。

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