scene122  意気を阻む壁

 大観衆のどよめきは収まっていない。試合開始時刻だというのに、アシアスが会場に姿を現していないからだ。
「なんで来ないんだ……」
 クレアは独白し腕を組む。はたから見ていても苛立っているのがよく分かる表情をしている。一方のドーランは雰囲気から感情は読み取れない。
 二人は既にグラウンド内の特設フィールドのそばで待機している。前代未聞の事態に、係員もどこか落ち付かない様子でいる。
「皆様にお知らせします――」
 突如響き渡ったアナウンスで、場内はまるで水を打ったかのようになり、その言葉の続きに耳を傾ける。
「試合開始時刻が経過しておりますが、決勝戦出場選手のアシアス選手が入場しておりません。これより五分の猶予を設け、時間内に入場した場合はペナルティを課した上で試合を開始いたします。また、刻限を過ぎた場合は失格とみなし、クレア選手とドーラン選手の二選手によって試合を開始いたします」
 アナウンスが終わるとすぐに場内がどよめく。前大会優勝者が失格になる、そんな出来事が起こりかねない。
 これに対してクレアの怒りはさらに増す。彼女の目的は優勝ではない。以前メイリとエミに語った通り、アシアスに直接勝つことだ。必ず決勝に来るであろう彼を直接倒すには、この場しかない。
(なんでこんな、勝手ばかり……っ)

 小雨は木々の葉に遮られて、時折滴が落ちてくる程度で、雨天だということはあまり意識させない。それよりも空を染める灰色が影を濃くして、遠くまで視界が及ばないということの方が、今は問題だった。
 穏やかだが生ぬるい風が枝を揺らし、この葉がかすれる音が、ベルナークの音さえも消す。
「くっそ、せっかく犯人が分かったってのに!」
「トオル、確かに怪しいけど、まだ確実とは言い切れないのよ」
「じゃあ追う意味ねーじゃん」
 舌打ちするトオルをエミはたしなめるが、その言は彼の興奮を抑えることはできなかった。
 実際、ベルナークが事件にかかわっている可能性は、この行動によって格段に上がった。しかしやはりまだ証拠はない。彼の所持している魔法石と、窃盗団の持っていた魔法石が同一だと認められれば別だが。
「ねぇ二人とも! 足下!」
 メイリが声を上げながら、トオルの方を指さす。トオルの足下にはぬかるんだ土が広がっている。
「なんだ? 何かあんのかよ」
「よく見なさいよ! 足跡!」
 トオルとエミが足下を見渡すと、トオルとエミの足跡のほかにもう一対確認できる。それは彼らと同じ方向から伸びてきて、そしてトオルの立っている場所から向きを変えて森の奥へと続く。
「これは……多分ベルナークさんの足跡ね」
「よーし。これを辿って追えばいいんだな」
 トオルに続いて、エミとメイリも走り出す。
 昨日から降り続く雨によって、土はぬかるんでいる。昨夜は今ほどに雨脚が弱くなかったので、余計に水を含んでいるのだろう。なぜだかこの土壌は雑草が少なく――というより、細かな雑草が所狭しと並んでいるわけではなく、やや背の高い植物が点在している。そのせいもあって足跡ははっきりと残っている。

「あっ!」
 トオルは両足をスリップさせながら急停止する。後続の二人は危うくぶつかりそうになりながらも間一髪で止まる。
「えっ、どうしたの!?」
「ちょっと急に止まんないでよ!」
「……足跡が消えた」
 トオルの言にエミとメイリは驚いて足下を見回す。トオルが急停止したところから、靴の跡は三対だけになっている。足跡が故意に消された跡はなく、完全に途中から消失している。
「一体どこに――――」
 三人が一様に辺りを見回し始めると、樹上の枝葉が音を立てて揺れる。特に太い枝に載っていた影の塊が、トオルたちの頭上目掛けて落ちてきた。
「避けて!」
 重苦しい音が目の前に黒く落ちる。エミの叫びに、三人は間一髪でそれの直撃を避けた。
「ベルナーク!」
 樹上からの攻撃が外れた彼は素早く起き上がり、トオル目掛けて拳を打ち込む。その攻撃はとっさにかわすことができたが、続けざまの足蹴りが決まりトオルは後ろに倒れこむ。直後にはベルナークがトオルの頭上から拳を振りおろしてくる。上体をひねることでそれをかわすが、間違いなく続けざまに来るであろう拳はおそらく避け切れないだろう。
 そう先を読んだが、ベルナークはトオルの頭上から離れる。素早く起き上がってみると、メイリが攻撃を繰り出していたようだ。しかしどうやら当たっていない。
 トオルは半身の状態のベルナークに跳びかかる。トオルの顔面へと向けて真っ直ぐに突いてくるベルナークの拳を紙一重でかわすと、速度を落とさずに腹部へ向かって身体をぶつけに行く。それと同時に、トオルの影に隠れていたメイリがベルナークの頭部へと回転蹴りを試みた。
 二方向からの同時攻撃を仕掛けられたベルナークだが、その表情には驚きなどは浮かばず、至極淡々としていた。メイリの蹴りをかわすために頭を下げたかと思えば、上半身が地面に付くのではないかと言うほどしゃがみこみ、突進してくるトオルの下から腕をくぐらせ、全身で勢いよく持ち上げた。
 突進の勢いが付いていたトオルは、持ち上げられたと同時に身体が前転する。それは背負い投げをされている状態によく似ている。身体が上下逆さになったところで、トオルの背中にメイリの蹴りが撃たれる。そのままトオルは背中から正面の樹木に叩きつけられ、肩から地面に落ちる。
 一瞬の顛末にメイリが目を丸くしていると、トオルに蹴りが加えられたことによる姿勢の崩れを立て直す前に、素早く間を詰めてきたベルナークによって背中に裏拳を放たれる。対処する間もなく弾き飛ばされ、うつぶせの状態で地面に突っ伏す。
(つ、強い…………――)
 トオルとメイリは身体を起き上がらせながら、ベルナークを見上げる。特別な構えなどは取っていない。ただ直立して二人を見下ろしている。これまで一戦を交えてきた数々の猛者たちとは、その瞳は全く異なる。ある者は闘志をたぎらせ、ある者は虚ろになり虚無が漂っていた。しかし彼は、日常となんら変わらない目をしている。
「あれ、終わりかなー? だといいんだけど」
 その口調も普段と全く変わらない。トオルとメイリは起き上がりながら、ますます愕然とする。彼は魔法石の能力を行使していない。能力を使えば彼の腕は硬化し黒く変色する。しかし、そのような変化は全く見られない。
(これが……、今の自分の実力…………)
 二人はただそれに打ちひしがれるしかなかった。ベルナークは魔法石の基礎能力向上の恩恵は受けているだろう。しかしその条件でも一撃も加えられないのは、トオルたちにとっては充分なショックだった。
 基本的に、魔法石の能力を使う際はその効果が発揮されるだけで、基礎能力向上の恩恵は所持しているだけで享受するものである。かといってその効果は絶大ではない。走ることにおいても、一般人レベルの人間が突然世界新記録を出すほどに効果があるわけではないのだ。
 つまりここで二人に付きつけられた現実は、お互い魔法石を持っている状態でも、能力を行使していない状態では体術的に大きな差があるということ。これから真魔石を追い求める上で遭遇するであろう困難に対して、実力が不足しているという証左を突き付けられたに等しいのだ。
 加えて、故意とはいえ彼は大会の優勝者でもない。大会である程度勝ち進むことができたのはルール上でのことで、実戦では勝手が違う。これから進む世界は、故意に相手を傷つける世界だからだ。
「私を、忘れてませんか?」
 トオルとメイリが対峙している中、エミは完全に蚊帳の外だった。二人の波状攻撃を見届け隙をうかがっていたが、結局そのようなものは見つけられず、攻撃に参加できずにやきもきしていた。敵意の色を濃くした瞳でベルナークを見据えるが、彼は興味なさげに振り向く。
「忘れてないけどね。やる気はないよ、きみは前線向きじゃないから」
 その言葉は、エミの心を揺さぶった。トオルたち三人の中で一番戦闘術に乏しいのは自覚している。だからこそ邪魔になってはいけない、戦力にならなければならない。しかしどれほど強くそう思っても、実際に相手を前に戦闘を放棄されれば、もうどうしようにもならない。
 トオルたちは、ベルナークを目の前にして次の一手になかなか移れないでいた。自らの実力、立ち位置を痛感させられ、目の前のことに集中できないでいた。
「じゃ、ばいばーい」
 ベルナークは笑みを浮かべてその場から離れようとする。彼は逃走中なのだ。この行為をしている時点で事件の容疑者である可能性は随分高くなっているのだから、もうこの付近からは逃げる算段でいるのだろう。
「待て!」
「待つかよ」
 ベルナークは当然制止の言葉など聞き入れない。逃がしたか、と悔しさが広がり始めた途端、エミの脇を走り抜けた男がベルナークの左腕を掴んだ。
「俺は逃がさないぞ、ベルナーク」
「……っ、アシアス――!」

 掴まれた腕を振りほどこうとするが、アシアスの腕力から逃れることが出来ない。ベルナークはすぐに脱出を諦め攻撃に転じる。しかし繰り出した拳は容易にはじかれる。アシアスは掴んだ左腕をひねり落そうとするが、身体ごと回転させてベルナークはそれを回避する。
 ベルナークは掴まれた腕を引きこみ、あえてアシアスとの距離を縮めると腹部へひざを蹴りこむ。攻撃は成功し腕を解放することに成功するが、アシアスにさほどダメージを与えられたようではなかった。
 アシアスは再びベルナークの捕獲を試みるが、素早く避けられ背後に回られる。間髪をいれず拳が放たれるが、アシアスは上体をひねり、それを腕でガードする。しかしベルナークはそのまま身体を回転させ、アシアスの膝へ蹴りを加えた。
 軸足に加えられた打撃で思わず膝を突くアシアスの顔面に向かって、ベルナークは跳び蹴りを繰り出す。しかしそれはしっかりとガードされた。
(堅いな――)
 ベルナークの攻撃は数度成功しているが、アシアスに大きなダメージは認められない。屈強な体躯は見るからに頑丈そうである。
 跳び蹴りが防がれ、ベルナークは数歩退いて間を取る。アシアスが立ちあがる間に斜め前方に走り出し、樹木の腹に足をついて反動を付ける。弾丸のように発射されたベルナークは空中で身体を前回転させ、跳び蹴りと同時にかかと落としをするような格好になった。地球上のスポーツであるプロレスの、コーナーポスト上から前転しながらのダイビング技に様式は似ている。
 これは受け身をあまり取らず、さらに攻撃が入るまでの間は無防備になる、リスクの高い技でもある。高い防御力に対し、敏捷性では勝っていると見たベルナークはこの方法を取った。これが決まればアシアスでも相応のダメージを受けるだろう。
 通常なら避けようとするのが普通なこの技に対し、アシアスはあえて真正面から迎え撃った。ミサイルのようなその弾道が胸に直撃ながらも、そのまま抱え込むようにして後ろへ倒れ込む。組んだ腕を離さずに転がり、頭と足の位置は逆だが、うつ伏せのベルナークに対してアシアスがマウントを取ったような形になった。
 そのままベルナークを拘束すれば、こちらの勝ちとなる。犯人とは確定していないが、ほぼ間違いないだろう。これから警察に引き渡して取り調べを受けてもらえば良い。そのはずだった。
「ぐあっ」
 アシアスは悲痛な叫び声を上げる。二人の攻防の顛末を見ていた三人には、それがはっきりと確認できた。ベルナークが右腕を硬化させ、アシアスの背中に打撃を加えたのだ。

 それほど強い打撃には見えなかった。しかしアシアスはうずくまり、額には汗がにじんできている。押さえつける力の抜けたアシアスから、ベルナークは難なく脱出した。
「危ない危ない、悪いが緊急回避ということで使わせてもらったよ」
 彼は立ち上がりながら一息つく。トオルたちに芽生えた一筋の勝機が、ここで一気に失せていく。魔法石の恩恵を受けているベルナークに対するアシアスの強さは、目を見張るものがあった。しかし能力を使われてはまったくもって歯が立たない。跳び蹴りを胸に受けてもマウントするほどのアシアスを、軽い振りのパンチでうずくまらせてしまった。
 むしろ、これまで能力を使わなかったことに疑問が湧く。今は大会とは関係のない、ルール無用の世界での戦闘のはずだ。それにアシアスは手負いになったとはいえ、誰も戦闘不能には陥っていない。
 だがそのようなことを考えている暇はなかった。ベルナークを逃してしまっては、トオルたちの魔法石はもう戻って来ないだろう。盗んだ容疑のある者が目の前にいて、みすみす逃すわけにはいかない。
(だけど、無理だ……)
 試合である程度勝ち進んだが、今置かれた状況では無力である。優勝者であるアシアスでさえも、魔法石を有したベルナークの前では一撃で沈んだ。それもおそらく、手加減した技で。
「どう? まだ追ってくるかい?」
 会話で見せたような明るい笑顔を浮かべ、しかしその表情はさっきよりもどことなく曇っているが、ベルナークは三人を見渡す。当然返事はない。否定はないが、肯定しても結果は目に見えている。だがそれでも、何とかしなければ魔法石は戻らない。答えようがない。
「これ以上追いかけてきたら、今度は気を失うまでは戦ってあげるからね」
 アシアスはおもむろに立ち上がり始めていたが、殴られた背中が傷んでいるようで本格的な交戦は無理だろう。
「では、追いはしないが、立ち塞がらせてもらおうか」
 後ろ姿を向けたベルナークのその向こうに、一人の中年男性が現れた。
(あの人は――!)
 エミはその容姿に思い当たる人物を受かべる。アシアスが人目に付かぬよう度々密会していた、右目に傷がある男。会場外に時折姿を現しつつも、エミら三人は行動を把握していない。フードを深々とかぶっていたその姿は、明らかに人に見つかると厄介だからだったのだろう。しかし今はしっかりと顔が確認できた。
「あなたは……っ――!」
 その姿を見て、ベルナークは正体を知っているのか驚きを隠せない。今日一番、感情が顔に表れている。しかしすぐに、だがはたから見ても無理矢理としか見えないが、真顔になって平静を装う。
「悪いが通させていただく!」
 同時に、硬化した腕を振り上げて男に向かっていく。トオルたちや、アシアスの時とは違い、まったく手加減をする気は感じられなかった。常人があの拳を食らえば、おそらく死を迎えることもあるだろう。アシアスへの攻撃を見て、トオルはそう感じ取っていた。
 ベルナークの拳が間近に迫っても、男は視線を外さないだけで身体は動かさない。メイリとエミは思わず目をつむった。
 倒木に鉄球を落としたような音が二度聞こえた。トオルの眼ではしっかり追うことはできなかったが、間違いなく男の勝利で決着がついていた。ベルナークは男の方に頭を向けて仰向けに倒れている。深い咳を何度も繰り返しながら、反動で手足をばたつかせる。意識はないのかもしれない。
 単純にカウンターを食らったならば頭は逆を向いているはずだが、そうでないのはきっと、音の通り二度攻撃を受けたからだろう、それもほんの一瞬の間に。恐る恐る目を開けたメイリとエミも、その状況に目を白黒させる。
 男はベルナークを担いでこちらに向かってくる。トオルとメイリも、昨夜の話し合いでエミからこの男の存在と特徴は聴いている。ベルナークの逃走を防いだので、決して悪ではないことは分かったが、それでも目的がはっきりしない。
「アシアス。攻撃を食らったようだな。お前はまだまだだ」
「――父さん……」
「父親!?」
 トオルは思わず声に出してしまう。その声にアシアスらは振り向く。
「紹介しなければな。俺の父だ」
「アシアスの父でガラウという。きみたちもよく頑張ったようだな」
 予想外、ではない。むしろ予想しておくべきだった。だが、クレアの家で会話をした中では、アシアスの成人と同時にこの街を離れたと聴いていた。
「今まで紹介できなかくて悪かったが、きみたちなら分かってくれると思う」
 アシアスは顔を伏せながらつぶやいた。クレアの父はガラウとの対戦後に亡くなり、彼はこの大会を追放されている。依然風当たりも強い中で、会場内でしか顔を合わせていないアシアスが、ガラウを紹介できなかったのは言わずもがなだ。
「さあ、ベルナークを連れていこうか。目覚めては困るからな、私も会場まで行こう」

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