scene109 ダークインパクト (3)
メイリがビルから脱出してからまだ十分と経っていない。だがこの不安の中、エミにはそれが二十分にも三十分にも思えた。
(大丈夫。あの二人はきっと私を助けに来てくれる――)
ぐっと膝を抱き抱え、目をつむって闇の中で念じ続ける。穴の開いた天井から吹き込んでくる風のひゅーひゅーとした音が、小さく聞こえる。時折聞こえる鳥の鳴き声の中に、メイリ達の足音は混ざって聞こえてこない。
その代わり、一番聞きたくなかった足音が、扉の向こうから聞こえてきた。同時に声も聞こえる。
「今日はいつもより早いな」
「珍しく時間通りに手配が済んだみたいだぜ」
その声は徐々に大きくなってゆく。同時に足音も近づく。その声には聞き覚えがある。エミとメイリを車に押し込んだ、手下の二人だ。リーダーのゲイルの声は聞こえてこない。
(そんな……まだ二人とも戻ってきてないのに)
部屋に入って来られれば、メイリがいないことなどすぐにばれる。真っ先に目に入るであろう天井の穴が見つかってはどんなごまかしも通用しないだろう。
(確か、扉は内開きだったわ)
エミは立ち上がって、なるべく物音を立てないように扉の前に移動する。扉のすぐ横には、三段に積まれた段ボール箱があった。
ただ一枚の鉄板を隔てた向こう側から、南京錠をいじる音が聞こえる。既に開錠し始めている。
エミはその段ボール箱の後ろに回り、素早く扉の前へと滑らせバリケードを作る。
(これで、多少は――)
焼け石に水なことは重々承知だ。いずれ事態はばれるのだから、それならば何か行動をしておかないと気が済まない。これで数秒でも時間を稼げれば、その間だけでも二人がやってくるのを待つことができる。
扉の向こうから二つ目の鍵を開ける音が聞こえてくる。少しでも時間を稼ぐため、エミは段ボールに寄りかかる。
大して動いてもいないのに息が上がる。先ほどから自分の耳に入るのは、鍵を開ける音と、呼吸と、高鳴った心臓の音だけ。考えられることは、ただ時間を稼ぐこと。
カキンと、鍵が開いた音が聞こえた。エミはぐっと足に力を入れる。一度軽く体が押される。一旦収まるとすぐに先ほどよりも強い力で押される。それの繰り返しで、エミは徐々に前へとずらされる。
「おらぁ! 何やってんだぁ!」
怒りがこもった男の怒声が、コンクリートに囲まれた空間に響き渡った。その瞬間に今までで一番強い力で体が押される。思わず前のめりになると、男は扉の隙間から侵入してきた。
「おいこら、何ちゃちいマネしてんだ」
軽くイラつきをにおわせたスキンヘッドの男が見下ろしてくる。エミは二、三歩後ずさった。
「何だありゃ?」
後ろにいたもう一人の男が天井に開いた穴を発見する。すぐさま最初に入ってきたスキンヘッドの男に声をかけ、穴の方を指す。そして穴を確認したスキンヘッドの男は部屋全体を見回した。
「もう一人の女がいねぇじゃねぇか。逃げやがったな」
その表情は怒りというよりもバツが悪そうだった。穴を発見した男は、ゲイルに報告してくるとだけ言い残し、部屋を出ていった。
フロアにはスキンヘッドの男とエミだけが残された。男は一息ついたあと、気だるそうにエミの方を睨む。なんとも例えようのない不気味な眼差しに、エミは身構える。殺意でも、敵意でも、かといって当然慈悲や容赦の雰囲気も漂わない、気味の悪い視線。意思が見えない。強いて言うなら、何も考えていないあたりがしっくりくるか。
(落ち着きなさい私っ。二人が来るまでの、辛抱だから――)
しかしそう簡単に落ち着くはずはない。相手の力も測れず、トオルとメイリもいまだに帰ってこない。
「おい、大人しくしねーとどうなるか分からんぜ。俺らは別に、傷つけるななんて言われてないからな」
そう言って男はエミに不用意に近づく。怯えさせないようにという配慮の全くない接近の仕方に、反射的にエミは数歩後ずさる。しかしその行動は、男を苛立たせるものだったらしい。歩く速度を上げてエミに近づく。とうとうエミは背を向けて駆け出す。
「おらてめぇなに逃げてんだよ!!」
その怒号はフロアに響き渡る。それと同時に、男は走りだす。エミはコンクリートの壁に相対し、向きを変えて角の方へと逃げる。そちらに逃げれば追い込まれることは確実だったが、かといって男の正面を突破して逃げることはできない。
さほど広くないこのビルの中で走れば、もちろん充分に加速しないまま壁際に追い込まれる。角に背を向けて、エミは目一杯身体を奥に押し込む。振り向いたときには、男が正面で仁王立ちしていた。
「んなところで逃げんの無駄だってわかんねーのかよガキが!」
エミはその男の目を見て、今は何を考えているかが分かったような気がした。それは、心の底から鬱陶しいものを蔑んで見る目。どこか正常なにおいが感じられない雰囲気は、とても心地が悪かった。
「天井壊したとこみると、魔法石持ってんだろうなてめえらは、ガキのくせに」
男の口調には気だるさがこもっていたが、対して表情は真顔から微動だにせず、機械人形の雰囲気を漂わせる。
「これ以上暴れたら面倒だからなぁ。ちょっと黙れや」
男は太い足を持ち上げて、力を込めて蹴りだしてきた。鈍い音と共に、男の足には確かに手応えがあった。しかしよく見ると、蹴り上げたと思った対象の前に、その感触の元があった。
「面倒くせぇ能力だなお前」
エミの前には、魔法石の能力で張ったバリアがあった。男の強烈な蹴りをくらったバリアはびくともせず、もちろんエミへの衝撃を微塵も通さなかった。
「ざけんじゃねぇぞこら!」
男はそのバリアを何度も何度も足の裏で蹴り続ける。もちろんバリアはびくともしない。
だが男の攻撃も無意味ではない。魔法石で作られるバリアは、能力者の精神力で強度が決まる。強大な衝撃を耐えれば精神力は消耗するし、大きなバリアを作るほど維持には体力を消費する。
少しずつ体力が削られて行きながら、独りで攻撃に耐えながら仲間を待つこの状況に、エミは不思議と落ち着きを取り戻し始めていた。
先ほどまでの恐怖と焦燥が、砂浜にこぼした水のようにしみこまれて消えていくような感覚だった。しかし余裕という感情が浮かんできたわけではない。例えるならば、無。思考回路は完全に停止している。
何も考えないままエミは男を見上げる。彼はまだバリアを攻撃し続けている。少しずつだが、バリアが攻撃を受けた時に振動するようになってきた。流れ出た男の汗が顎から床へと落ちた時、再び脳は働きだした。
(この人は、何をしてるのかしら?)
いわば脳が再起動した状態で、今までの感情がリセットされた。記憶がなくなったわけではない。今までの流れもすべて忘れたわけではなく、もちろん現状も理解している。ただ、精神はこれ以上ないほど落ち着いていた。
(とりあえず、トオルとメイリさんを待てばいいけど、私の精神力じゃバリアが持つかどうか……)
エミは体重を預けていた壁から背中を離す。そして男の正面を見据えた。
「あ? なんだよ!?」
男は酷く苛立っている。人質の一人に逃げられたうえ、こうした終わりが分からない攻撃。傷つけてはいけないという命はゲイルから受けておらず、憂さを晴らすためにエミに襲いかかることは必至だろう。
「何でもないわよ。気にしないで攻撃してくれてもいいですよ?」
エミは挑発ともとれるような笑みを浮かべる。一周りは年下であろう小娘に馬鹿にされた気分に陥った男は、怒声をあげて思いきり殴りかかった。
「――インパクトリフレクション」
小さく発したその声と同時に、薄青のバリアは薄いピンク色へと変わった。
その変化に気付きながらも、男は拳を止められない――止めるつもりはない。素人が殴られれば一発で気を失いそうな勢いを持ったその拳がバリアに当たった瞬間、まるで濡れ雑巾を叩きつけたかのような音とともに、男は後方へ吹き飛ばされ倒れた。
「危ないですよ? 受けた攻撃をそのまま返すカウンター性のバリアですから」
エミはバリアを消す。付加能力のついたバリアは、普通のものよりも精神力を消費する。しかし今のエミにとっては些細なこと。精神が乱れる気配が、自分でも一切感じられない。
男は右腕を押さえながら立ち上がる。先ほどよりも大粒の汗を流している。痛がってはいるが右腕に怪我を負った様子はない。
「ふざけやがってガキがぁ! ぜってーに一発ぶち込んでやらぁ!」
男はバリアを出していない生身のエミに向かって、もう一度右手で殴りかかる。エミは今度はバリアを出さずに壁のないほうへと身をかわす。そしてそのまま走りだし、フロアの広い場所へと誘導する。
充分に広いところまで出ると突然エミは立ち止まる。後ろを追う男はここぞとばかりに、助走のついた巨躯の体重をすべて右腕に乗せ大きく振りかざし、そのままエミに殴りかかる。しかしそれを予想していたのか、エミはピンク色のバリアで覆った左腕の肘を振り向きざまに男のみぞおちに叩き込んだ。
それは見事に決まり、男は奇声をあげて軽々と弾き飛ばされ数メートル先の段ボールの山へ突っ込んだ。
「ちゃんと、忠告しましたよ。危ないですよって」
エミは真顔で穏やかにしゃべる。だが、そこに感情はこもっていない。
そしてエミは軽くため息をつくと、ようやく自分の感情の所在を突き止めた。
(よかった。これで二人が来るまでは大丈夫かな……)
しかしほっとしたのも束の間、崩れ落ちた段ボールの山の中から物音とともに声が聞こえ、落ち着いたはずの精神を乱し始めた。
「ガ……ガキィ……。ただじゃ済まさねぇぞぉ!」
雄たけびを上げると男は勢いよく立ちあがる。ダメージを受けていないわけではないが、気絶させるには至らなかった。手応えとは裏腹な男のタフさに、エミは動揺せずにはいられない。
さらに悪いことは重なる。
「おい、今ゲイルさんに連絡してきたぞ――どうした?」
「帰ってきたか、お前も手伝え、こいつは魔法石を持ってる」
メイリが脱走したことをリーダーのゲイルに報告しに行った男が戻ってきたのだ。しかし男は一人で、ゲイルと一緒に戻ってきた風ではない。
「おい、アニキはどうした?」
「ゲイルさんは今外に出てる。だがすぐに戻ってくると言っていた」
幸いにもすぐさまゲイルが来るわけではないらしい。この手練れたちを率いているのだから、戦闘の実力も対峙している男たちより強いと考えられる。
(ダメ、かもね……)
先ほどのように感情が行方をくらましていることはないが、エミは至って冷静だった。しかしバリアの使用により精神力は若干削がれている。加えて相手が一人増えてしまった。エミは極めて落ち着き現状を捉えて、勝算が低いということを導き出してしまった。
気付けば男たちはじりじりと間合いを詰めてきている。先ほどのカウンターで慎重になったのか、隙をうかがっているようにも見える。エミは決して視線をそらさずに、バリアでの防御のタイミングを計る。
「はっ!」
男は二人同時に走り出した。左右に分かれ両側から同時にエミに襲いかかる。エミは素早く青色のバリアを身体全体を覆うようにドーム状に張った。当然男二人の攻撃は届かない。
しかし男たちは打撃をやめる。バリアに手を当て、体重をかけて全力で押し始めたのだ。これはエミにとっては予想外だった。
バリアを張ることでも精神力を消費するが、衝撃に耐えることでもそれは消費される。加えて今度は起立した身体全体を覆うようにバリアを張っているために、体力の消費も激しい。
(やっぱり――そんなに持たないかも……)
しかしそのエミの予想以上に消費は早く、じきに息が切れ始めた。それを見た男たちはますます力を入れる。
(お願い、来て、早くっ!)
そう思った時、ガラスの割れるような音とともに、あっけなくエミのバリアは崩れ落ちた。驚いたエミの一瞬の硬直を、スキンヘッドの男は見逃さなかった。
「……っ!!」
即座に蹴りあげられた男の太い脚がエミの脇腹を捕らえる。鈍い音を出してエミは数メートル飛ばされ倒れこむ。強烈な一撃に、エミは呼吸もままならない。
「ははは! 軽いなぁ! まだ気絶してもらっちゃあ困るぜ。まだ足りねぇからな」
そのために拳ではなくて、身体の方に足が来たのだと、かろうじてエミは理解した。痛みよりも重たい苦しみのせいでそれ以上考えられない。体を起こそうと、少しでも男から離れなければと、本能による働きかけにも身体は応じない。
「苦しいだろ? ガキでもたまんねぇな、こういうのを見るのはよ」
長らく呼吸が上手くいかず、エミは思考することができなくなり始めていた。呼吸を求める反射のみで精一杯で、意識もやがて遠くなろうとしている。
「ん? こりゃあ危ねぇな。気を失われる前にもう一発行っとくか」
スキンヘッドの男その言葉の中には、紛れもなく快楽の感情がこもっていた。
時間がかかりながらもようやく拙い呼吸が戻り始めたエミは、曖昧な意識の中で覚悟を決めていた。そして、のちに起こるであろうゲイルたちとの戦闘の足枷になることを謝罪した。
(二人ともごめん……。迷惑、かけ……)
「エミちゃん!!」
フロア中に突然響いたその声は、メイリのものだった。
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