第7部

いよいよ暑くなってきた。気温は細かく言えば27℃位だろう。しかもジメジメしている。湿度も高い。ジャイアンツのほかの選手達も結構効いてき始めたようだ。この地域の詳しい気候状態は知らない。しかし今日はたまたまこの天気になった。
「よりによってなんでこんな大事な日にこんな高温多湿に…。」
この天気に嘆いた選手が一人居た。早くも額にじんわりと汗をにじませている。この選手は読売ジャイアンツの投手、絹ヶ谷だった。この絹ヶ谷が口に出した大事な日とは?

広島県広島市中区基町。原爆ドームを望める位置にこの球場はある。広島市民球場。グランド面積12160㎡、中堅115.8m、両翼91.4mで11球場中最も小さな球場である。ここに来たと言うことは、今日の対戦相手は広島東洋カープである。今年の広島は例年通りの強さだろうか…。

球場にウグイス嬢の声が響く。
《9番、ピッチャー、絹ヶ谷。背番号45。》
巨人の先発投手は絹ヶ谷だ。これだったのだ、絹ヶ谷が大事な日と言ったのは。試合は13時20分に開始する。現在時刻は12時57分。絹ヶ谷はブルペンに移動している途中だった。
(気温は27℃、湿度は83%。長袖のアンダーシャツ持ってきて正解だったな。)

13時15分。試合開始5分前、絹ヶ谷はマウンドで投球練習をしていた。一球一球慎重に投げていた。それもそのはず、絹ヶ谷は今年21登板しているが、先発はまだ今年2回目なのである。1球大きく外れた。
「絹ヶ谷、落ち着いていけよ!」
「あ、はい!」
ホームベース付近からマウンドに向かって阿部が話しかけた。絹ヶ谷もそれに返事をした。

13時20分試合が始まった。読売ジャイアンツの攻撃、1番清水。対する広島の先発投手は長谷川。得意の直球に押されショートゴロ。この後も長谷川の威力のある球に三者凡退に終わった。そして1回裏、絹ヶ谷がマウンドに上がった。絹ヶ谷は大きく深呼吸した。
「ふぅ~…。」
「よし!」
絹ヶ谷は気合が入った。そして大きく振りかぶって第1球。絹ヶ谷の手からボールが離れた。その球は阿部のミットに、ホームベースの真上を通っていった。
「ストライ~ク!」
1球目ストライクのコールが起こった。絹ヶ谷はこの初球ストライクで、調子に乗った。その後もどんどん強気で投げ込み、5回までパーフェクトピッチングで来た。一方味方のジャイアンツ打線も4回に大量6得点をあげていた。そして6回裏。
『ズバーン!』
《三振ー!絹ヶ谷、今日7つ目の奪三振!そして無安打も続いています。》
絹ヶ谷はこの試合、まだ一つも四球を出していない。いよいよ完全試合が見えてきた。
「絹ヶ谷、いい調子だな。こりゃもしかしたらいくぞ。」
「阿部さん、俺はそんな完全試合にこだわってませんよ。」
「嘘付け。」
二人は笑いながらベンチへ戻っていく。

『ズバーン!』
《来ましたー!9回裏広島の攻撃も二人が倒れて2アウト。ここで絹ヶ谷が最後の打者を打ち取れば完全試合達成です。》
(来た…、ここまで来た…、まさかあと一人まで来れるなんて…。)
絹ヶ谷は高まる気持ちを落ち着かせながら、最後の打者、代打町田に向かって一球目を投げた。
『シュッ』
『パシーン』
「ストライク!」
観客席が一気に沸いた。勿論巨人側が。
「あと2球!あと2球!」
場内あと2球コールが響く。絹ヶ谷は再び心を落ち着かせた。そして再び振りかぶった。
『シュッ』
『パシーン』
「ストライク!」
観客席が興奮に包まれてきた。あと1球コールが沸き起こってきた。広島ファン側はもう呆然。絹ヶ谷も興奮に手が震えてきた。プロの投手なら目標にするもの。200勝と完全試合。特に先発投手を志してきた者ならそれは当然である。
(よし、こういうときこそ落ち着くんだ。ここで喜んじゃいけない。あと1球残ってるんだ。)
絹ヶ谷はここに来て更に心を落ち着かせていた。そして絹ヶ谷がセットポジションにつくと、球場は静まり返った。その瞬間を見るために。
『ガバッ』
大きく振りかぶった。だがしかし、神はすでに絹ヶ谷に不幸を与えていた。今日は高温多湿、絹ヶ谷の手は汗で滑りやすくなっていた。絹ヶ谷は興奮を抑えていたものの、やはり気付いていなかった。絹ヶ谷の手から離れたフォークボールは高めに甘く入った。
『カーン!!』
ライト側スタンドから歓声が起こった。町田の放った打球は左中間を破るツーベースヒットとなった。
「そ…そんな…。」
たった1回、ロージンバッグを触っていれば偉業は達成されただろう。結局完封はしたものの、絹ヶ谷は相当気を落とした。完全試合を達成できなかったのだから。セ・リーグでは、1994年、槙原寛己が達成して以来、まだ出ていない。

絹ヶ谷は今シーズン7勝目を手にした。だが、今日の結果は不甲斐ない。さっさと着替えて帰ろうとした。しかしそこに一本の電話が掛かってきたのだった。

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