第1話  始まったベースボールライフ

 一九九六年四月。大阪の私立虎の子学園高等学校。今ここでは、新入生の入学式を行っている。
 大阪府の北部に位置する名門野球強豪校で、総生徒数は、今年度の入学者を含めて一一六八人。今年度も、競争率一.八五倍を勝ち抜いてきた四百人が入学した。

 新一年九組はいささかざわめいている。蛍雪の功で入学し弛張している者も居れば、野球推薦で入り意志を高めるものも居る。程無く担任の教師が入室して来ると、教室内はにわかに粛然とした。
 その教師は見るからに小さな体躯で、やや歳を重ねている感じだった。
「皆さん初めまして。私がこのクラスの担任の磯村といいます。このクラスは教えられませんが、古典の担当をしています。これからよろしく」
 お願いします、と、一部の女子が挨拶をする。
「ではまず、顔と名前を覚える意味で、出席を取ります。返事をお願いします。――浅井健志君」

 入学式後の諸多が終わり生徒らが帰り支度をしている頃、そのクラスの一人の男子生徒がもう一人の男子生徒に話し掛けた。
「やったな。ついにこれで虎学生徒や。夢にまで見た虎学の」
 虎学。地元ではここをそう呼んでいる。
「うん、そうだね。僕は受かるとは思ってへんかったけど」
 一方は芦屋護(あしやまもる)、野球推薦でこの学園に入った生徒だ。もう一人は日比野優哉(ひびのゆうや)、受験して入学した生徒である。
 同じ中学校に通っていた二人は、一緒にここへの入学を目指し頑張ってきた仲であった。更に野球部でも共に歩んできた。
「やっぱここに入ったからには野球で頑張らへんとな」
「そうだね」
 二人は野球部に入部することを決意し、既に手元に配布された入学届けに必要事項を記入した。そして、午後に始まる練習までに、届けを提出することにした。

 二人は並んで歩き、野球部監督の所へ入部届けを提出しにいった。
 並ぶと幾分か優哉の方が背が低い。
 監督のいる部屋の前で、はたと向かいから来た生徒と目が合う。同じく顧問室に入室しようとしており、手には入部届けがあった。
「あ、お前も入部すんのか?俺も入部するんやけど―」
 その生徒は鋭い眼で目で護を一瞥すると、話の途中で顧問室に入っていった。
 怒り出しそうな守を、優哉が制止する。
 間も無くその生徒が出て行くと、今度は護たちが入室する。
「失礼します!」
 二人が声を揃えて部屋に入ると、監督と先輩部員らしき人影があった。
 一礼して奥に進み、監督の前で再び頭を下げ入部届けを提出すると、先輩部員らしき人から声が掛かる。
「初めまして。野球部副キャプテンの溝口涼(みぞぐちりょう)です。よろしく」
 二人はとっさに返事をする。
「は、はい!初めまして、一年の芦屋護です!よろしくお願いします!」
「日比野優哉です!よろしくお願いします!」
「二人は礼儀がかなっているね。野球部へようこそ」
 外見からは、すぐには野球部とは分からない。体の線が細い。すると座っている監督の声がした。
「よし、練習は一時半からだ。遅れるな」
 サングラスを掛けた監督の声は圧迫感があったが、別段何も感じなかった。

 この虎の子学園は、前年度の夏の甲子園大会で大阪代表として出場し、惜しくも準決勝で敗退しベストフォーだった。この時は名匠奥田靖勝(おくだやすかつ)が率いた年であり、当時の四番、三浦元(みうらはじめ)は、阪神タイガースにドラフト二位で入団している。
 今年はその名匠も去り、新生虎の子学園としての出発の年だった。
 午後一時半。虎の子学園の野球部専用球場に、全部員が集結した。整列が済むと、監督が姿を現した。そして髭を蓄えた口を開く。
「とりあえず自己紹介をしておこう。俺の名前は中村道雄(なかむらみちお)や。今年からこの野球部の指揮を執る。前年度、奥田監督の下で、甲子園ベストフォー入りを果たしたそうやが、そんなもんではあかん。俺は優勝一本に絞っている。そこんところを肝に銘じておいてくれ。俺からは以上。続いて新キャプテンから話や」
 監督は横に移動し、逆隣から目付きの鋭い部員が現れた。
「俺が今年のキャプテンの橋田智久(はしだともひさ)や。中村監督の言う通り、優勝を目指して行く。今年は新入部員が十八名入り、六十三名のスタートとなる。この中で甲子園のメンバーになれるのは16名や。周り全員ライバルやと思え。以上」
 主将の挨拶も終わり、もう一人出てきた。顧問室に居た、優しそうな副キャプテンだ。
「僕が野球部副キャプテンの溝口涼です。一年生の皆さん、始めまして。分からないことがあったらどんどん先輩に質問してください。では、よろしく」
 三人の挨拶が終わると、早速ランニングが始まった。学年順に並び、一年生のその中に護と優哉の姿もある。
 整列し終わって、護は気付いた。隣は顧問室の前で出会った、目付きの鋭い部員。先に口を開くのは、その部員。
「あ、お前、野球部に入ったんや」
「な、言うたやんけ!この―」
「おい、一年!うるさいで!」
 キャプテンから注意を受け口を閉じる。
 走り出し、掛け声を出しながらも、その部員をねめつける。その生徒は掛け声に紛れ話しかける。
「知ってるよ。からかった程度で大声上げんなや」
「…っ、るせぇ。俺はお前みたいな奴が嫌いやねん」
 護君、と、優哉が制止する。護はそれに構わない。
「君、名前は?」
「芦屋護や」
「お前に訊いてへん。そっちの君や」
 眼光炯炯とした先には優哉の姿。おずおずしながら自分を指差す優哉に頷く。
「僕は日比野優哉です。よろしく…」
「俺は橋田洋一(はしだよういち)や。よろしく、日比野君」
 優哉は怪訝に思いながらも、優しそうな声音に安堵した。護はどうも納得がいかなかった。

 この日の練習は軽く、一時間ほどで終わった。 沢山の人との出会いがあり、新しい道に踏み込んだ一日であった。
 翌日から本格的な練習が始まるが、護は手応えを掴んだ様子だ。
「よっしゃ、練習には付いて行けそうやな」
「…うん、僕は…どうやろう」
「何弱気になってんねん。俺ら二人で虎学のレギュラー奪い取ろて言うたやんか」
 二人の通っていた中学出身の虎学生は、彼ら以外は全て女子だった。故に一層気合が入る。
「さあ、今日はさっさと帰って、朝練に備えよう」
「うん」
 二人の帰路には黄昏が差し込んで長い影を作っていた。

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