彷徨い心

作:海李

 なんだか身体が重いような気がする。そういえば胸やら背中やらお腹やらが鈍く痛む。ズキズキとした痛みではない。内から外から押されあって、形を保ったまま押しつぶされそうな、満腹状態でプールの底に潜り込んだような感覚とでも言うべきか。
 とても不思議な痛み。このような痛みは今まで感じたことがない。大きな怪我や病気なら今まで何回かやってきたが、この不調はそれらとはちょっと違う。なんとなく風邪かインフルエンザかそんなものに近い気がする。いずれにせよ違和感がある程度なのでそんなに大事ではないだろう。

 大きな怪我といえば、骨折を二回ほどやったことがある。一度目は小学六年の時、二度目は高校二年の時。
 私は小学校低学年のころに地元の小学生サッカーチームに入団した。元々サッカーが好きだったというわけではないけど、運動は好きだったし、野球と違って走り回ってボールを蹴るのが楽しかった。毎週日曜日になると練習か、もしくは試合が行われた。私は常々日曜を楽しみにしていた。
 体格に恵まれていた私は、五年生のころからチームのエースストライカーになっていった。チームの誰よりもボールのキープ力があると監督に評価された。ただもっと味方にもパスを回せと注意されたことも何度もある。だから私はそれを意識して味方にもパスを回すようにしていたし、空いてるスペースに行くように指示してパスを出して、ゴールをアシストすることもあった。
 チームの最高学年である六年生の人数は四人とちょっと少なかったが、皆優しくて、年下である私がエースとなっていてもちっとも妬まず恨まず、むしろ私を試合で引き立たせてくれることもあった。そんな先輩方にも私は指示を出してパスをすることもあった。最初のうちはびくびくしながら言っていたが、先輩方はチームのためとか、お前の指示は的確だからとか、怒りもせずに誉めるばかりだった。
 だから私はちょっと調子に乗ってあれこれ言うようになってしまったのだけれど、さすがに生意気だったらしく、思い上がるなと監督と先輩方両方から叱られた。私はそれにすっかり懲りて、結局皆は私のことが嫌いなんだと思ったこともあるが、どこか私は楽天家的なとこがあったみたいで、先輩方がまたいつものように優しい先輩になっているところっと機嫌を直していた。
 先輩方がチームを卒業する時には、味方を意識することを忘れなければもっと強くなるという言葉を頂いた。私はそれを忘れずにこれからやっていこうと思った。
 だけどその矢先だった。六年生に上がって最初の試合で、相手チームのキーパーから放たれた高く浮いたボールを何とか奪おうとしてジャンプした時、もちろんボールをキープしようと相手の選手もジャンプしてきて、とうとう空中で交錯してしまった。お互いにバランスを崩して地面に落ちたが、どうやら私は手の付き方が悪かったようで、激しい痛みが走ってふと右手を見てみると、小指があらぬ方向へ曲がっていた。痛みと恐怖でつい私はわんわん泣きだしてしまった。
 それが人生で初めての骨折だった。病院で薬指と一緒に包帯でぐるぐる巻きにされて、しばらくは注意するように言われた。私は右利きだったのでそれはそれは不便だった。字を書くとき、箸を持つとき、他の三本の指があるからできないわけではなかったが、まっすぐに伸びた薬指と小指がなにかと邪魔をしてくる。給食で出た唐揚げを床に落としてしまった時には、こんな邪魔ならむしろないほうがいいとさえ思ったこともある。そしてしばらくは体育の時間も、バスケットとか跳び箱とかをやらせてもらえなかった。
 そんなになっても、毎週日曜日のサッカーの練習だけは毎回欠かさなかった。サッカーに手は使わない。いや、スローイングのときには使うけど、そこは誰がやっても大差がないので他の人に任せればいい。監督も私の身を案じながらも快く練習に参加させてくれた。私はもう痛いのは嫌なので、相手の選手にぶつかっていくようなプレーは極力避けるようにした。そしたらどうだ、私は消極的になりすぎていたみたいで、さっと横を抜かれてしまうようになった。時にはそれが失点の種になったりもした。監督やチームメイトは仕方がないと慰めてくれたけど、私は申し訳なく思った。それに、監督は試合に負けても諦めがつくかもしれないが、チームメイトのほうはまだ小学生、闘争心や負けん気がむき出しで心の中では私を罵っていたのかもしれない。当時は言葉を額面通りに受け取っていたけど、今考えたらそうかもしれない。
 指もすっかり治って、中学高校と私はサッカーの道をまっすぐに進んだ。高校はサッカーで推薦を受けて入学した。中学まではエースストライカーだったが、各地からエースを集めている私立高校はやはりレベルが高い。私なんかはトップではなく、中の上くらいであった。
 すごく悔しかったけど、高校になってものの分別もできるようになっていたし、サッカー以外にもいろんな趣味ができ始めていたから、そんなすぐにはトップにはなれないと納得できるところもあった。
 けれどまっすぐサッカーの道を進んできた者としてはやっぱり夢はプロになること。当時はJリーグが発足して三年目を迎えていて世間はサッカー一色になっていたし、だからこそこの学校もサッカー部に力を入れ始めて選手を集め始めたところもあるだろう。三年生はそのブームが始まる前からサッカーに興じている者で、うまい奴もいれば下手な奴もいる。私はその中から勝手にライバルを見定めて、プロになるために邁進しなければならなかった。
 私はきょろきょろと練習しながら周りを見ていたけど、私が勝手に意識したライバルは意外にも同じ一年生だった。彼の名前は宮田と言うのだが、今でも彼とはとてもいい友人関係を気付いている。
 宮田は当時の一年生の中でもずば抜けて技術が高く、すぐにでもレギュラーになれるのではないかと周りから噂されていた。そしたら一年生の夏にはピッチに立っていた。私はライバルに先を越された悔しさと焦りとともに、友人として興奮と応援する気持ちが起こっていた。
 そんな宮田とはそのころは既にとても仲が良く、切磋琢磨し合っていた。試合が終わった都に宮田に初出場おめでとうと声をかけたら、あいつはお前も早く来いと言ったんだ。それは嫌味の言葉ではなくて宮田の本心だった。私もそれがわかったから、真剣な眼をしてすぐ行くと答えた。私はその時頑張ろうと、宮田と一緒にこのチームを作っていこうと固く誓った。
 頑張って練習したら、三年生卒業後に一年生として四人目の控え選手に選ばれた。宮田と私の間に二人いるのはちょっと悔しかったが、それよりも宮田と一緒にプレーしていける喜びのほうが大きかった。
 そしてレギュラーも近づいていた二年生の夏、合宿での練習中だった。スライディングで相手のボールを奪いに行った時(この時点で相手へ突っ込んで行くプレーの恐怖はなくなっていた)、右膝を折ってしまった。ぶつかった相手もひどい捻挫だったようだが、私のはもっと酷くて、骨折すると同時に腱が切れてしまっていたようだった。懸命にリハビリすれば再び今のようにサッカーができるようになるが、早くても一年以上かかると医者に言われた時、私はプロの夢を諦めた。

 あ、なんだかますます調子が悪くなってきたみたいだ。今日は日曜日で近くの病院はすべて休みだ。だけど月曜になれば私も仕事に行かなければならないから、ちょっとしたことでも受診しておくべきだろうな。ちょっと遠くなるけど、日曜診療を受け付けている総合病院まで行くか。
 とりあえず私は病院に行くために電車に乗ることにした。家から駅までは歩いて五分の距離。目的地の病院も駅からそう遠くはないところにあったはずだ。
 重い体を引きずるように歩いて、私は何とか駅について電車に乗り込んだ。病院のある駅までは四駅くらいなので十分くらいでつくだろう。それにしてもこの症状は一体何なのだろうか。かつて私が患った肺炎よりはしんどくはないけど。
 私が二一歳のころ、当時は大学三年生だった。その冬に私は、サッカーのサークルの連中と一緒に旅行に出かけた。二月の初め頃のちょうど一番寒い時期に北海道へ行き、さっぽろ雪まつりを見ようじゃないかという話になっていた。ちなみに宮田は違う大学へ進んで全国大会の常連になっていたようだが、どうやらそろそろプロ選手になる気はなくなってきていたらしく、サッカーには係わりたいが、メディカルトレーナーのようなことを志していたようだ。
 それはともかく、その北海道へは三泊四日の行程で行くことになっていたのだが、その二日目のいよいよ雪まつりを見に行こうかという日だった。その日の朝、どうにも体がだるくてなんだか喉も痛くて咳が出るようだった。仲間は口々に風邪をひいたなら休んでおけというのだが、私は雪まつりが見たくて旅行を強行した。
 三日目についに私は三九度の熱を出してこれはやばいということになり、救急車で病院に搬送された。そしたら風邪が悪化して軽い肺炎を引き起こしているとのことだった。私はその病院で五日ほど入院して千葉に帰って、そのあと地元の病院でさらに十日ほど入院した。
 私の不注意で仲間には迷惑をかけてしまって非常に申し訳ないという気持ちがあって、しばらくはサークルに顔を出せなかったのだが、勇気を振り絞って尋ねてみると彼らは暖かく私を迎えてくれた。余計に心配をかけてしまったことに気付いて私は平謝りだったのだが、それさえも彼らは許してくれたのだ。

 病院に着いた。幸いなことにあまり外来患者はいないようで、現在診察している人が終わればすぐに私の番らしい。ついている。昔何度も入院していたからか、あまり長居してしまうと逆に落ち着いてしまって帰るのが億劫になってしまう癖を私は持っている。
 そんなことを考えている間にも前の人が診察室から出てきて、私の番になった。
「今日はどうかしましたか?」
 五十代くらいの優しい顔つきをした男性の医師が尋ねる。
「なんだか胸とか、腹とか、背中とかが鈍く痛むんです。重い感じというか」
 医師は少し考えて、とりあえず服をまくってくださいと言った。私は言われるがままに服をまくりあげる。医師は聴診器を胸の上のほうから下腹まで様々に当てて、うーんと唸っている。
「心臓は何ともないですね。熱はありますか?」
「あ、わかりません。計ってないものですから」
「じゃあ一度熱を計ってみましょう」
 奥から女性の看護士が一人出てきて私に水銀の体温計を手渡した。軽くそれを振って私は脇に挟み込む。
「この不調はいつぐらいからありましたか?」
「昨日は何ともなかったと思います。ただ今朝からこんな感じでした」
「普段食べないものを食べたとかはありますか?」
「いいえ。いつもと同じものしか食べていません」
「頭は痛くないですか?」
「頭はなんでもないです」
 その後もいくつか問診が続いて、時間が来たので体温計をとって差し出す。
「三七度二分。微熱ですね」
 熱があったのか。自分では意識していなかったこともあるだろうけど全然気付かなかった。
「ちょっとレントゲンを撮ってみましょう」
 レントゲンとは大事になった。さっさと診療して薬をもらって帰るつもりだったのに。私は医師に連れられてレントゲン室に入り、胸のあたりを中心にレントゲンを撮った。そして再び診察室に戻って、しばらくしたらレントゲン写真がやってきて、よくテレビドラマで見られるようなライトが入ったボードに掲示される。
「うーん」
 医者の表情がなんだか神妙だ。
「採血しましょう」
 これはまた大事になった。さっさと診療して薬をもらって――とさっきも同じことを思っていたな。仕方がないし、ここまで来て原因不明のまま家に帰るのは私もなんだか気味が悪い。大人しく従うしかない。
 採血が済んで、簡単な結果が出るまで数分の間待合室でゆっくりしてくださいと言われ、私は診察室を出た。一体どうなってしまうのだろう。もしかしたら私はこう呑気に構えている場合ではないのかもしれない。

 私はまだ若いと思っている。この年でまだまだ老けこんではいられない。今が一番働ける年齢なのだから、将来を考えても一番頑張らないといけない時期だ。それなのにこんなところでつまずいてはいられない。妻にもあまり迷惑をかけてはいけない。私が薄給ゆえに働いてくれているのだから。
 将来は二人子供を作ろうかなどと、昨日も話し合ったばかりだ。私と違って妻はまだ二八だ。子供を作るなら早いに越したことはないのだが、いかんせん結婚費用やらで消費した貯蓄をようやっと取り戻し始めたばかりで、どうも養育費に回せるようなお金もそれほど貯まってもいない。お金がどうとか言いたくないけど、やはりこの世の中を生きていくためにはそれなりの額が必要らしい。
 私の子供には幸せになってもらいたいものだ。私は親から与えられたレールを強制的に歩まされてきた。高校、大学と、私の行きたい学校はことごとく却下され、父親に指定されたところへしか進学できなかった。母親は私のことを考えていてくれたのだが、家族内で絶対的権力を持つ父親には到底手向かえなかった。特に兄弟もいなくてたった一人の嫡子であったし、立派に育て上げたいという親心も今ではわからないでもないが、好きなことができないのは当時の私にとってとてもつらいことだった。
 私も将来の子供に苦労してほしくはないが、好きなことを目一杯やらせようと決めている。悪い方向には進まないように注意しながらも、興味を持ったことにはどんどんかかわらせてやろうと思っている。やがてその道を進むことを諦めたとしても、その子にとってそれは貴重な経験になると信じているからだ。
 きっと様々な困難や苦痛、挫折も経験するだろうけど、そこで優しく迎え入れるのが私たち親の役割だと考えている。そのためにも私自身がしっかりしなければいけないし、こんなところで原因不明の病に倒れるなんていうことがあってはならないのだ。
 だけど正直なところ、血液検査までする段階になってきていよいよ私は不安になっている。まさかそんな大仰なことになるとは思っていなかったからだ。もしこれで大病が発覚したらどうしよう。家では妻が待っている。そろそろ夕方だから、今日の晩ご飯と、これからの一週間分の買い物に行く時間だ。このときは私も荷物係として妻を車に乗せて一緒に出かける。ああ、私は運転をしなければならないのだが、それじゃないと満足に買い物もできないだろう。そろそろ私の帰りをまだだろうかと待っているころではないだろうか。私がいなければ妻は不満に思いながらも一人で買い物に出かけるだろう。一度連絡でも入れたいのだが、私の座っているベンチの正面の壁には、“携帯電話の使用はご遠慮願います”と書かれた張り紙が堂々と張られているのだから何もできない。そうして妻は一人で私の帰りを待つのだろう。なんとかしなければ。
 私がこのまま入院にでもなってしまったら、その時は病院のほうから連絡がいくだろう。ちょっと年配の女性の看護士が一般の電話応対の時よりも少し低いトーンで、とりあえず妻に病院に来るように言いつけるだろう。何のことやら狼狽しながらやってきた妻は、その看護士に案内されるままに医師の部屋に通される。
「奥さん、落ち着いて聴いてほしいことがあります。決して取り乱さないでください」
「お、夫に一体何が起こったのですか? 身体は無事なんですか? 治るんですか? 先生教えてください!」
「落ち着いてください。それについて今から申し上げます」
「教えてください、何があったのです?」
「とにかく冷静になって聴いてください。――旦那様はあと三ヶ月の命です」
「さ、三ヶ月……」
「お、奥さん? 誰か、この奥さんをベッドに寝かせるのを手伝ってくれないか!」
 こんな具合にきっと卒倒してしまうだろう。そしてその医師は私のところにはその様子は決して伝えまい。まず私の余命が三ヶ月しかないということさえ教えてくれないだろう。
 これから先、妻はどうして生きればいいか。さっきも述べたとおり、貯蓄はようやく回復してきたばかり。家は借家だから残せないし、車は一応資産にはなるのだろうけどまだローンを払いきっていない。共働きではあるけど妻はいわゆるパートなので、収入に関しては一人で暮らしていくには心許ない。
 私の両親は結婚は大いに喜んでくれたし、妻を本当の子供のように可愛がってくれている。父親なんか初めてできた娘なものだから最初から自分の子供だったかのように溺愛している。近況についてはほとんど妻に聞いて、厳しいと一瞬でも感じさせてしまうとすぐに少額でない現金を送ってよこす。あまりにちょっとのことを大げさに受け取るものだから悪いことのように感じ、妻も報告する時はネガティブにならないように注意しているようだ。ただ父親は最近私たちに支援ができないようで残念がっている。お金の支援をすることが今の父親の楽しみの一つになっているらしい。以前受け取ったお金の余剰分を返そうと、父親は絶対に受け取ってくれないだろうから母親に渡そうとしたら、母親までこれはあげたお金だからと受け取ってくれなかった。今でも母親は父親のことを尊敬しているらしい。これはこれで、私は両親が幸せに暮らしていると受け取ることもできるので安心している。
 妻の両親も大層私を可愛がってくれて、いつも妻がなにかやらかしていないかとドキドキしているようだ。妻は若いころすこしやんちゃしたようで、その頃が両親にとってもショックだった様子で、せっかく嫁に行けたのだから娘のせいでひびが入っては申し訳ない、と常に私の家族へ恐縮している。妻には姉がいて、その人が良く出来た女性だから余計に心配しているのかもしれない。
 妻はやはり一人で暮らしていくのは現状から難しいかもしれない。けどこれだけ親戚一同恵まれているのだから路頭に迷うことはないだろう。もしかしたら、溺愛の私の両親と、心配性の妻の両親によって有り余る援助を受けて、今よりも贅沢な暮しができるかもしれない。それならそれで私はいざという時も安心できる。
 もしかしたら私がいないほうが妻は幸せな環境に身を置けるのかもしれない。だけど男として、夫として、約束――はしてないが、子供を作るということを諦めるわけにはいかない。子供の数は三人でも四人でもいいが、できれば一姫二太郎、女の子と男の子両方ともほしい。可愛い娘のドレス姿を見るのと、成長した息子と酒を酌み交わすことが私の老いてからの夢でもあるのだ。

「野口さん、どうぞ診察室へ」
 私がさっき想像したような年配の看護士ではなく、若くて綺麗な女性の看護士が声をかけてきた。どうやら血液検査が終わったらしい。とうとう私の病名が判明するのか。どうか重くない病気であることを願う。私にはまだやりたいことがいっぱいあるし、やらなければならないこともいっぱいある。守らなければならない人もいるのだ。無宗派ではあるが、それこそ都合のよい日本人、このようなときは神に祈ってしまう。しかし不思議なものだ。神と言えばイスラムではアッラーフ、キリストではイエスとしっかりとした対象がいるのに、日本人の想像はそれとは違うように思える。大抵、白髪白髭、白いローブをまとって天使の輪っか。人によっては天使の羽があったり禿げていることもあるだろう。イエスとも、ちょっとちがう。この辺りはちょっとあとで考えてみよう。
「どうぞお座りください」
 私は先ほどの医師に促されるまま目の前の椅子に座る。内心すこし気持ちが乱れていたのだが、大の男が診察室で騒ぐなんてみっともない姿を晒したくもないし、至って冷静なふりをした。どんな厳しいことを宣告されても、動じないでいようと気を持ったが、やっぱりなんだか落ち着かない。前置きなしで単刀直入に言ってくれればいいなと私は少し願っていた。
「お疲れ様です。検査の結果が出たのでお知らせいたします」
「はぁ」
 冷静なふりをしようと何でもないように返事をしたつもりだが、かえって間の抜けた声が出てしまって、失敗してしまったかもしれない。頷くだけにすればよかったか、それてもしっかり受け応えをすればよかったか。いや今はもういい。診断結果を聴かなければ。
「検査の結果、軽度の内臓疲労ですね。脂っこいものは控えて、食事の量を減らしましょう。そうすれば二、三日で良くなりますよ」
 ほっとした。よかった、軽度の内臓疲労だと。
「昨日は食べ過ぎたんじゃないですか?」
「そういえば昨日は同窓会がありまして。あ、刺身やらフライやらはいつも食べてますが――」
「あー、いえ、いいのですよ。私の訊き方がまずかったのですね」
 昨日は高校時代の仲間との同窓会があって、皆高校時代に戻ったかのようにはしゃいでいたので、知らないうちにビールも食も進んでいたのだろう。
「では、お大事に」
 二、三日我慢すれば治るし、何よりも仕事に支障が出ないので誰に迷惑をかけなくて済む。だるさは気合で乗り切るしかないだろうが、まあ耐えられない苦痛でもない。さっさと治して、しっかり働かなくては。大したことないと聞いて、病院へやってくる時よりも身体も気持ちも軽くなった。病は気からとはよく言ったものだ。しかし私も年をとった。
 さて、急いで帰って妻とともに買い物に行かなければ。

注:この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、一切関係ありません。