環 -あの公園へ-

作:海李(前半、後半)、君島三夜さん(中盤)

 今、目の前に出されたのは、紛れもなく唐揚げである。香ばしい匂いが空腹の私にはこたえる。
 しかし、手を付けてはいけない。この密閉空間の中で、一対のテーブルとイス、その上にぽつんと置かれた唐揚げ。無音の世界、どこから入ったかもどこから出ればいいかもわからないこの空間に、揚げたての油の音が聞こえる唐揚げは、耐えきれないほどの空腹を抑えるほどの不気味さを醸し出していた。
「食って……いいのか……?」
 誰に向けるわけでもなく話しかける。しかし私の目線はずっと唐揚げに向いている。恐る恐る歩を進めながら、気付けば私は椅子に腰をおろしていた。
 箸はない。しかし、手づかみでも問題はない。唐揚げなのだから。
 揚げたての油の音は既に止んでいる。この部屋(部屋と言うよりも真っ白な立方体の中と言うのが近い)は完全に無音だ。高鳴り始めている私の心臓の音が、体幹を伝って聞こえてくる。
(腹、減った――)
 もう空腹が限界に近付いている。あれほどまでに違和感のあった唐揚げに、私は手を伸ばし始めていた。

 宙に浮いたかのような感覚と共に、背筋を何かが這いまわった。皮膚の下を蛇が這うような気味が悪い感覚。思わず立ち上がり後ろを振り向き、身体を確認する。なにも異常はない。
(気のせいか……?)
 改めて向き直ると、唐揚げは変わらずそこにある。再び手を伸ばすと、また身体を這うような感覚が遠くから迫るのを感じる。
 しかし、その気味の悪さに、空腹は勝てなかった。
 瞬時に手を伸ばして唐揚げをつかみ取る、同時にまた同じような、身体の表面と中身の間を何かが動きまわる感覚。それに構わず唐揚げを皿から取り上げる。しかし唐揚げを取り上げると粘度の高そうな液体が糸を引いてついてくる。それが何かはわからないが、強烈な腐臭と共に、身体の違和感は勢いを増す。
「――――れ?」
 か細い声がした。
「――――だれ?」
 今度ははっきりと聞こえた。目の前が暗くなった気がした。

「わたしをたべたの、だれ?」
 気付けば、逆さになった、幼い少女の血まみれの顔が、視界いっぱいに広がっていた。
 足も、手もぴくりとも動かず、ただ目の前の光景に頭の中が真っ白になった。それはまるで黒と白のコントラストの中に赤い一本の線が太く鋭く描かれた、少女に支配された世界。
 その世界で私は叫ぶこともなく手をゆっくり動かして視線の中に両手を入れる。いや、違う…これは自我で動いてるのではなく、目の前の少女が動かしてるのか…勝手に体が動く。
 手の指と指の間から少女の含み笑みが覗いていて、私はごくりと息を飲む。
「あなたでしょう…あなたなんでしょう…?」

 ぞくりと一瞬んにして鳥肌が全身を回った。何故なら目の前の少女は私の手を握っていたからだ。不気味な笑みの血だらけの少女は、確かにそこにいた。私と二人。手をつなぎ、血が私の手へと辿るように流れた。床に液体が鈍い音を立てて落ちた。
 しかしその鈍い音は私の中の記憶の中にあった気がした。
(なんだ…この音は…)
 頭の中でエコーする音。手をつながれたまま、その音を辿って行った。



「お兄さん、また来たの?」
 朝焼けの空にブランコが揺れていた。そこは私の住んでいる家の近くの公園だった。大きさは教室ひとつもないぐらいの、小さな公園である。
 薄暗い雲がまだ空を覆いつつも、もうすぐ朝が来る。そういう、毎日の繰り返しの最初をここの公園でいつも過ごしていた。いわば私の日課でもある。
 私が近づくと少女はブランコから飛び降りて、その華奢な足で駆けてきた。私の横に並ぶようにして立ち、空を見上げた。
「お兄さんはなんでこの公園に来るの?」
 私も空を見上げるようにして少女とは目を合わせず、そっと口を開けた。
「ないしょ」
 こうして少女と話すのも日課だった。他愛のない話だったけれど、自分の中でとても綺麗な時間が流れていくような気がした。
 そして空を見つめ続けた後、私のお腹から朝ご飯を求める音が鳴った。
「…………」
 私はごほんとわざと咳をしてそっぽを向いた。横目で少女のほうに視線をやると、やっぱり笑っていた。
「くすくす…お兄さん、お腹すいてたんだね」
「別に…」
 すると少女は前を向いて歩きはじめ、公園の端までいくと振り返った。
「昨日の残りモノだけど、お腹すいてるならもってくるよっ」
 その一言を告げて、彼女は背中を向けてアスファルトに駆けていった。おそらく少女はこの近くに住んでるのだろう、なにか持ってきてくれるのかもしれない。そんな、軽い気持ちで少女を見送った後。
 目の前からなにかの大きな衝撃音が轟いて、それはエコーするように私の耳から頭へと…そして心へと音は響いた。
 淡く白い光を背に、小さな人形の影が宙を舞う。滞空時間はどれほどだっただろうか。再び大きな音が響くまで、それほど時間はなかったはずなのに、空に舞った影はまぶたの裏にこびりついて離れない。
 その時無意識のうちに私の足は動き始めていた。ぼーっとした頭で、誰かに導かれるように、自然と足が動きだすような感覚。

 足下には、さっきまで笑顔を見せていた人形が横たわっている。全身真っ赤に彩られ、新鮮な光に照らされた彼女の姿は、鮮やかで哀しく染まっていた。
 普段と見慣れない方向へと屈折している足に、心の表面までを曝け出した身体。一緒にいることが叶わず、離ればなれになってしまったか細い利き腕。いつもと変わらないきめ細かな肌をしている顔。半分だけ開いたまぶたからのぞく虚ろな瞳は、どこを見ようとしているかわからない。
 引き込まれるように膝をつき覗き込むが、少女は動かない。私には何の感情も湧かなかった。少女を宙に放り投げたものは既にそこにはいない。赤いタイヤ痕が数メートル続くだけで、そこから先は姿を消したように何も残っていない。
 少女に視線を戻すと、生ぬるい風が全身を覆うような感覚が襲う。優しく体を包んでいたはずの陽光が、皮膚を切り裂くように痛い。そして、赤の隙間から見える少女の心臓がゆっくりと拍動を再開する。しかしその拍動は、私が見ても分かるほどに自然のそれとは違っている。泡の中から泡を生み出し、幾度もこぶを重ねて巨大化していく。こぶし大のそれは、少女の体からはみ出すほどの成長を見せている。
 その出来事に、私は逃げ出すどころか、視線を反らすことさえできない。その意識さえ顕在するのは許されず、目の前のそれを見続けることを強制される。
 肥大化した心臓の表面を見ると、中で黒い何かがうごめいているのが分かった。それは表面部のすぐ下を通っているのか、通過時に膨らむ。そしてそれが、少女の心臓をこの大きさまで成長させたのだと直感した。
 すると途端に急激に心臓は元の大きさまで収縮する。そして間髪をいれず、表面を突き破って黒いものが私を目掛けて襲ってきた。金縛りのように身動きの取れない身体はそれを避けることも出来ず、声も出せないまま私を覆い尽くして、口、目、耳、鼻、毛穴とありとあらゆるところから体内へと侵入する。
 暗い水底で限界を迎えるようなその間隔は、意識を失う寸前で収まる。


 私の体には何も異変はなかった、見た目上は。
 直後に湧きでた感情は食欲。真っ先に目に入った自分の掌に、もしもこのままかぶりつけばどのような味だろうか。理性で拒否し、感情で拒絶しても、心の奥底から欲が頭の中を支配する。
 その指の隙間から、横たわる少女が目に入った。
 その瞬間、頭の中に何かが侵入してきたような感覚を覚える。まるで、水底の泥に埋まったものを引き上げるような。
(それは、いけない――)
 しかし、自分をコントロールする自分は、既に別の何かに支配されている。

 住宅街だというのに誰もいない。音のほとんどない空間に、私と、少女の肢体。不気味な雰囲気を醸し出すその光景に、私は寒気しか覚えなかった。
「食べては……いけない……」
 誰に向けるわけではなく話しかける。しかし私の目線はずっと少女に向いている。拒否する理性とは裏腹に、気付けば私は手を伸ばし始めていた。
 箸はない。しかし、手づかみでも食べてはならない。食べ物ではないのだから。
 彼女の体温は完全になくなっている。この街(街と言うよりも実寸大の模型の中に放り込まれたという方が近い)は完全に無音だ。高鳴り始めている私の心臓の音が、体幹を伝って聞こえてくる。
(腹、減った――)
 もう空腹が限界に近付いている。あれほどまでに拒否していたにもかかわらず、私は赤いものに触れていた。
 宙に浮いたかのような感覚と共に、背筋を何かが這いまわった。皮膚の下を蛇が這うような気味が悪い感覚。しかしそれの正体を確認しようにも体は動かない。
(やめろっ……まだ今ならっ!)
 全身全霊を尽くして身体の動きを止めようとすると、やっとのことで動きが止まる。しかしまだ身体を這うような感覚が遠くから迫るのを感じる。
(だめだ! もう二度と――引き込まれるな!)
 全力での対抗は長く続くはずもなく、私を支配した何かには勝てなかった。
 瞬時に手を伸ばして塊をつかみ取る、同時にまた同じような、身体の表面と中身の間を何かが動きまわる感覚。全力でそれを拒否しても、支配された体は止まらない。塊を取り上げると粘度の高そうな液体が糸を引いてついてくる。それが何かはわからないが、強烈な屍臭と共に、身体の違和感は勢いを増す。

 身体は止まらない。何もかも拒否するしかない。それでも体は動き続け、両手が次々と往復する。体中をめぐる何かは、腕、脚、背中、顔の表面をも蠢いている。そのために身体は小刻みに振動し続ける。
 目の前はだんだん暗くなる。その何かが視界の中にまで入ってくる。流線型のそいつが、いくつも頻繁に目の前をよぎる。そいつが時を増すごとに増殖し、表皮ははち切れそうなほどに膨らんでいる。
 あとは七つの欠片を残すだけ。ほとんどが闇に覆われた世界の中で、目の端で捉えた最後の記憶。それきり視界が閉ざされ、間を置かずに裂ぱくの音と共に、芯に響く激痛が体中を襲う。悲鳴を上げる間もなくその何かによって、私の体は押しつぶされていった。

 気付けば見知らぬ場所に私はいた。音もなく、ただ何もない空間。視線を何かがよぎる。黒い何か。陶器が軽くぶつかるような乾いた音が聞こえた。目線の先には、白い器に盛り付けられた、唐揚げが置かれていた。



「わたしをたべたの、あなたなんでしょう……?」
 私はハッと意識を戻す。逆さになった少女に握られた手は、あのときのように赤く染まっている。滴り落ちた血によって、足下には赤い池が出来上がっていた。
 思いだしてしまった。この子を食べたのは私だった。しかし、食べたかったわけではない。この子の中にいた何かが私に取り憑いて、無理矢理食べさせられた。だが、食欲が満たされるその時の恍惚は否定できない。
「ち、違う、あれは――」
「あなたなんでしょっ!?」
 体中を、再びその何かがはいずりまわる。このままでは私はどうなるかわからない。この状況ですら理解できないというのに、これ以上苦しみを受けたくはない。
「わ、私だ! だが、操られてたんだ!」
 思い切って白状した途端、全身を動き回っていたなにかは姿をひそめ、目の前の少女は床に足を付けて普通に立ち、うつむいた口元は緩んでいるように見えた。
「やっぱり。だめだよ、わたしをたべちゃ」
「うん……、ご、ごめん……」
 前髪に隠れて目元は見えない。しかし柔らかい語気から、怒りの感情は読み取れなかった。
「わたしじゃなくて、おかあさんと、おとうさんだよ?」
 私は少女が何を言っているのかわからなかった。
「わたしね、ひとりでからあげつくれたんだよ。えらいでしょ?」
 同時に少女はくすくすと笑う。私にはまだ理解できない。この子は両親のために唐揚げを作ってあげたのだろうか。
「へ、へぇ……えらいね……」
 まだ少女は笑っている。その少女の笑いは、私には理解できない。少女も、その私の様子に対して笑っているように見えた。
 しかしここで、私はとんでもない可能性に気付いてしまった。確かめたくはない、それが事実であってほしくはない。しかし、この可能性だけは潰しておかなければならない。
 私は、覚悟を決めるしかなかった。
「ねぇ」
「うん?」
「その唐揚げって、何のお肉で作ったの?」
 少女の笑いは止まる。同時に、白い歯が見えるほどにやけた口元が見える。
 そして不自然なほど素早い動きで顔を上げ私を見つめた。

「おとうさんと、おかあさんだよ! あははは!」
 狂気に満ちた笑い声がその空間にこだまし、ヘドロのようなものがそこらじゅうに降り注ぐ。白い空間はいつの間にか赤黒く変色している。
「わたしじゃなくて、おとうさんと、おかあさんだよ。たべるのは。あはは。やりなおしだね。あはははは。」
 少女は狂ったような笑いを見せ、可愛い顔は般若のような形相になっている。
「あははは、やりなおしだ、さいしょからやりなおしだ。わたしじゃなくて、おとうさんとおかあさんをたべてくれなきゃだめだよ、あははは。おとうさんと、おかあさんでつくったからあげたくさんあるからいっぱいたべてね、あははは。ちゃんと食べてくれなきゃだめなんだから、あはは、やりなおし、やりなおしだね、あはははははははははははははははははははは!」
 津波のような赤黒いヘドロに襲われ、身体の自由は奪われ、波に飲まれていった。

 気付けば、朝焼けが綺麗な公園にいた。私の家の近くにある公園だ。
 朝焼けの光で、私は思いださざるを得なかった。あれは、悪夢だったのだろうか。よく覚えていないが、記憶の核心に迫ろうとすると拒絶される。ただ、心が張り裂けるような恐怖は覚えている。
 そういえば毎朝、この公園では少女に出会う。いつもそっけなく対応するけど、思いだす悪夢を忘れさせてくれる、心の清涼剤。
 小さな足音が、近付いてきた。








-あとがき-

 この作品は、リンク集にある 君の葉。 というサイトの君島三夜さんとリレー形式でコラボした小説です。
 執筆時期は公開日の約一年前の2010年2月です。とある交流サイトのチャットで盛り上がり、突発的に書き始めました。
 お互いにホラーが苦手なのになぜかこんな作品が出来上がりました(笑)
 読み終わった後に背後が気になるような作品に仕上がっていれば幸いです。

注:この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、一切関係ありません。