その清らかな涙は秋を知って

作:海李

「由貴姉ぇ」
 もえ――妹が私を呼んだ。帰宅したばかりの私の手を引っ張って、早く早くと急かしながら、私はもえの部屋に連れ込まれた。
 その部屋にいたもえ以外の人を見て、私はすぐに紅潮する。
「由貴姉ぇ、あたし彼氏できたんだ!」
 そう言われて紹介された男の人は、こちらを見て柔らかい笑顔で会釈する。私も釣られて頭を下げる。
「この人ね、大学三年生なんだって。大人だよねー」
 そう。もえは高校二年生。年の差四歳。そこまで考えてはっとして、私はもう一度もえの彼氏の顔を窺う。彼はそれに気付いてまた微笑む。私はまた顔が赤らむのを感じて、思わず部屋を飛び出した。
「姉ぇ?」

 自分の部屋に逃げ込むと、私は荷物を放り出してへたっと座り込んだ。
(なんで高波先輩が……!?)
 高波先輩は私の通ってる大学の二つ上の先輩。そして、私が片思いをしている男の人でもある。講堂の出入り口ですれ違ったり、食堂でよく見かけたりしているうちに、だんだん好きになっていってた。私の授業がないときに、別の授業を受けている先輩と同じ講堂に入ったこともある。
 そんな常日頃思い続けている高波先輩が、妹の部屋にいる。「彼氏」として。
 考えれば考えるほど、今の状況がとんでもないことだと理解し始めてきた。それは組体操のピラミッドの土台をやっているようだった。どんどん重くなってくる。そしていよいよ、転覆しそうな舟みたいになってきた。
「姉ぇ」
 扉を開けて入ってきたのはもえだった。事の重大さに気付いてぐらぐらになった私の心は、それには無関心だった。
「かっこいいでしょ、彼氏」
 もえの自慢に、私は何も返す気がなかった。
「姉ぇはいつも大人しいからね。可愛いんだから、行動的になればすぐに彼氏くらいできるよー?」
 もえは行動的。私はその逆。それは分かっていたけど、こんな差のつき方って、こんな結果が出るなんて、あり……?
「じゃあね、私は楽しんでくるからー」
 そう言ってもえは部屋から出て行く。
(なによ……。勝手に好きな人奪って……もえのばか)

 翌日まで私はもえと一言も言葉を交わさなかった。あれからもえは顔をあわせるごとにのろけてくる。高波先輩はあれから二時間ももえと一緒にいた。
 今日も朝からもえがのろけてくる。
「姉ぇ。彼氏とメールしてたんだけどね、今度一緒に遊園地行こうってさ」
 昨夜からずっと気が立っている私は、そこでついに爆発した。
「あのねぇ! もう自慢やめてよっ、いい加減ムカつくんだから!」
「ね、姉ぇ」
「昨日からずっと彼氏が彼氏が彼氏がっ! あんたはそれしか言えないの!?」
「な、なによ! あたしは姉ぇに早くいい人が出来て欲しいから言ってるんだからっ!」
 こうなったらもう止まらない。
「意味わかんない。のろけることが私のためっ? 勘違いしてんじゃない? 単に見せ付けてるだけじゃない!」
「勘違いじゃない! 姉ぇは消極的過ぎるんだっ。高波さんが好きなら積極的にアタックしなよ!」
 言ってもえは一瞬しまったという顔をする。当然私はその言葉を聞き逃さなかった。
「――もえ……、あんた、私が先輩のこと好きなのを知っててワザと……!?」
「姉ぇ、違うっ、そういうことじゃない!」
「何がそういうことじゃないよ、そういうことなんでしょ! もえのバカッ!!」
 そう吐き捨てると私は走り出して玄関を飛び出した。
 私の目からは涙がこぼれてきた。泣くつもりはなかった。けれどももう、堤の切れた川のように涙が溢れ出してきて止まらなかった。

 そういえば今日は朝一の授業があったはずだけど、もうそんなことはどうでもいい。止まらない涙を袖で拭いながら、静かな住宅街の一角にある公園へ入る。朝なので子供も遊んではいない。
「ばかっ……ばかっ……!」
 ベンチに座っても、涙は止まらなかった。すると、頭の上に何かが乗っかった気がした。ゆっくり顔を上げると、誰かの手が乗っている。誰なんだろうと、涙で滲んだ視界で目を凝らしてみた。
「高波、先輩……」
「どうしたの?」
 初めて高波先輩に声をかけられて、嬉しさのあまり飛びつきそうになるところだったが、今はそれよりも悔しさと悲しさが勝っていた。
「先輩も、どうせ知ってるんでしょ……?」
 私はちょっとだけ敵意を混ぜてみた。私が先輩を好きなことを本人も知っているのなら、それは絶望に追い討ちをかける。それは自分を滅ぼすかもしれなかったけど、聞かずにはいれなかった。でも乗せられた手を掃うことはしなかった。それでも嬉しいから。
 彼は不思議そうな顔をした。それは何も知らないと、無言で言っていた。ちょっぴり安心したけど、それ以上に悲しみのほうが大きい。私は結局、もえに好きな人を取られた形に変わりは無いからだ。
「なんのことだろう。俺は何も知らないけど……。それよりどうしたの?」
 先輩はそっとハンカチを差し出してくれる。それを受け取って涙を拭く。
「もえが、先輩のこと……自慢してきて……つらくて、喧嘩して、……飛び出してきた」
 嗚咽混じりに何とか言い切る。そしてはっとした。これって間接的に私の気持ちを伝えちゃったんじゃ……。
 先輩は困ったような笑いを浮かべて隣に座る。そして少し考えるような顔をして、ようやく口を開いた。
「もえちゃんがいっぱい喋りすぎたのかな?」
「――そうです。昨日からずっとのろけっぱなしで……」
 ちょっとずつ涙も止まってきた。荒波がちょっとずつ収まってきた。
「ごめん。――あれは俺が言ってくれって……頼んだんだ」
「へっ……?」
 唐突なとんでもない告白に、思わず気の抜けた声を上げてしまった。私はちょっと恥ずかしくなる。
「あの、どういうことですか?」
 恐る恐るその言葉の真意を訊いてみた。もしかしてこのあてつけは、先輩が考えたこと? ということは、それって完全に私をからかう為の――そんなことを考えていると、高波先輩は予想外の言葉を口から出した。
「俺、由貴ちゃんのことが好きだ」
「……………………え……?」
 聞いてすぐには何も理解できなかった。けれど、一字ずつ理解していくと、最後の三文字辺りで顔が熱くなる。自分でもとんでもないくらいに赤くなっているのが分かる。そして今度は嬉しくて涙が溢れてきた。
「姉ぇ~!」
 もえが走ってきた。私の後を追っていたらしい。近くまで寄ってきてごめんという言葉を繰り返している。けれど今は私の視線は完全に固定され、顔を真っ赤にした猿の銅像のように固まっていた。
「由貴ちゃん?」
「は、はいっ」
 高波先輩に呼ばれて我に返る。
「ごめん、姉ぇ。付き合ってるってのは嘘で、姉ぇが高波さんに積極的になるように考えたお芝居なの」
 また暫く硬直して、ようやく意味を理解する。
「ええぇぇぇ~~~~~~~!!!!!!!」

 事の顛末は、私が高波先輩を好きなことを口走ったのを、知らない間にもえに聞かれていたらしい。そしてさらに街で偶然、友達と話している高波先輩を見かけ、私を好きなことを話していたのを聞いたらしい。仕掛け人はもえだったのだ。
「そしてあたしの身分を明かして、一回理由を作って家に来て見ないかって誘ってみたの。それで嘘ついて、姉ぇが対抗心から高波さんに積極的になってくれないかなと思って……」
「じゃ、じゃあ最初は、高波先輩は私の気持ちは知らなかったんですか……?」
「うん。でも本当にごめんね。俺もこんな手を使わずに直接言えばよかったな」
 先輩は本当に悪いことをしたと言う顔をして謝る。
「ううん。いいんです。私もつい感情的になって、そこまで考えが付かなくて……」
「でも、ごめん」
 先輩は頭を下げる。じかに話したのは初めてだけど、いつも見ていた印象と全く同じく、心も綺麗な人だということがよく分かった。このままだとずっと謝り続けそうなので先輩を許すと、私はもえのほうを向く。
「ごめんね、もえ。ばかなんて言っちゃって」
「あたしもごめんね。姉ぇを苦しめるようなことしちゃって」
「いいの。結果的にはもえのお陰なんだから」
「そうだよもえちゃん。気にすることないよ」
 もえが浮かべた笑顔は、今までのなかで一番可愛い笑顔だった。

「由貴ちゃん、今日は学校行く?」
 もえは気を遣って先に家に帰り、私と先輩と二人きりで公園で話している。
「今日はいいや。ずっと先輩といたい」
「そっか。俺も今日は由貴と一緒にいるよ」
 私は先輩の肩に頭を乗せる。
「俊哉って呼んでくれ」
 それは先輩の下の名前。私はその時初めて先輩の下の名前を知った。先輩の周りでその名前で呼ぶ友人を見かけたことはないからだ。けど逆に言えば、私がその名前を呼ぶ記念すべき第一号ってこと。
「うん、俊哉」
 小春日和の下で吹く秋風は、とても心地よかった。

注:この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、一切関係ありません。